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2007.08.24

「現象」のひと、「本質」のひと

入った本屋でたまたま見つけた池田晶子著『暮らしの哲学』(毎日新聞社)を読んでいる。なかなか進まないんだけど、急いで読むたぐいの本ではないから、これでいいんだと思う。ちなみに、平積みされているのを手に取った理由は、表紙が良かったから。ジャケ買いである。


カバーの写真は、ソースの異なる4枚の写真を組み合わせて構成してある。モチーフは空。自分も空の写真を撮るから気になった。

 ところが私は、というか哲学は、本来的に、そういうものに関心がない。ここがなかなか理解されない、というか誤解されるところなんですが、それは哲学とは別のことだから関心がないというのではない。「金、女、権力」とは、つまり「現象」です。しかし、世間の現象を現象たらしめているところの「本質」、現象の向こうの本質の側にこそ、哲学は関心があるので、現象の側にはあんまり拘わらないということなのです。より正確には、もし現象を正しく認識したいのであれば、本質を認識する方が先である。つまり哲学が本質を知ろうとするのは、現象を知るためである。現象と本質が別のことであるわけなんかないのだ。
( 私たちは真理を知っている、の章 p.30から引用 )

なぜサンデー毎日なんて週刊誌で“哲学する”かについての説明の章。この文を読んで「あ~、そうか」と思い至ったのだ。そうだったのか。どうにもこれまで自分が感じてきた、世界との齟齬のような感覚、その理由がここにあったのかもしれない、と。


ひとは「現象」を優先する人と、「本質」を優先する人とに分けて理解できるのではないか、というのが思い至った仮説。どちらが優れているとか劣っているかとか、そういうことではなくて、ひとによって着眼点が異なっているということ。「現象」「本質」と峻別できるのではなく、その両者の間に無段階で様々なひとがいる。無段階で異なっている。その間が離れすぎているとお互いに理解が困難になる、ということ。


この辺はいまの仕事であるマーケティングに関わってくるんだけど、まぁ、それは置いておいて……。


自分は40歳を過ぎてから、まさしく不惑とはこういうことなのか、と感じることが多くなったが、著者によれば四十代男性というのは煩悩のかたまりなんだそうで、確かに周りを見回せば四十代、五十代の男どもは悩みを勲章としているようなのが多いなぁ、と思われたりする。どうしてそんなに人生を複雑にしちゃうんだろう、て。


て、考えているわたし自身は、こどもの頃からちょっと浮いていて、「○○さんちの××ちゃんのほうが成績がいいなんて、あんた、それで悔しくないの!」とか親からよく叱責されたもんだが、何が悔しいのか、悔しく感じなければならないのか、がわからなかった。わからないから、そこでまた怒られる。


そんなことよりも、自分が死んだらどうなっちゃうんだろう、とか、世界の始まりはどんなんだろう、とか、宇宙の果てはどうなっているんだろう、なんてことを考えていたが、そんなことをクチにすると親に叱られるから黙っていた。でも、池田さんのこの本に出会って、「あ、同じようなひとがいたんだ」と安心できたような気がする。


哲学屋とか物理屋とかになりたかったが、「カネにならん」と許可されなかったからならなかったけど、結局、いまもカネにならない仕事をしている。やりたいこと、やるべきなんだよなぁ。べつに大上段に構えて哲学をやろう、とか、そんなんじゃなくて、そうか、半分人生おりつつ、残り半分を好きに考えて暮らすのもアリだよな、と思われてきた。


でも、こんなにさっぱりしちゃうと、マーケティングなんて生臭い仕事ができなくなるかな?

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