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2007.10.25

流れの先にあるのは日腐れた澱み、かも――SAPIO:大新聞の「余命」に寄せて

SAPIO 11月14日号(小学館)の特集は、“大新聞の「余命」”。創刊以来、買ったことは1、2度なんだけど、書店の平積み表紙の特集タイトルが目に飛び込んできたので買ってしまった。



現場にきわめて近いところで仕事をしているわたし自身にとっては「う~ん、で?」というところ。わかっているんだけど、どうしようもない。でも、どうにかしなきゃいけない。じゃ、どうするよ――という焦燥感と、もうひとつは相反するようだけど、何ができるかな、というワクワク感が同居している状態。



“汚染”されていない若手や、広告をフィールドに仕事をしている人間にはわかっていることなんだが、問題はマネジメント層が、環境条件の変化とかを実感レベルで理解できていないところなんだろうなぁ、と思う。たとえば、SAPIOの今号を読んで「だから、みんな、やっぱり新聞のこと、マスコミのことをわかってないんだよな~」とか思ってしまう経営陣がいる新聞社は相当にヤバイ状態だと云えるだろう。



16ページに図が出ているけど、「マイクロコンテンツ化」の概念を理解できていないとすれば( そして、たぶん理解していないと思うけど )、彼らの仕事のプラットフォームが( 控えめな表現だけど、もしかしたら“劇的に” )変化しつつあることを実感レベルで理解できていないということになる。



たとえば、GoogleリーダのようなウェブベースのRSSリーダをタブブラウザで使えば、「小川浩的世界」の到来を実感できる。ニュースサイトやメルマガなんかよりも高速に、そして的確に情報収集ができてしまう。フィードという粒度でニュースソースに接触するようになると、従来の“マスコミ”の“得意”としていた“文脈”なんてものが解体されてしまって、ネットという場で再構成されてしまう――ということが、たぶん理解できないのだと思う。



この場合、“文脈”ということばを“信頼”ということばに置き換えてしまっても、あながち間違いではないのかもしれない。ネットという個の意識の増幅装置によって、“信頼”というものがコミュニケーションのプラットフォームの一要素でしかなくなっているわけ。この辺は、30ページの元毎日新聞社の河内孝氏が云っている「eプラットフォーム」とか「メディアコングロマリット」なんてのと関係してくるんだと思うけど、“ニュース”とは何か、その辺が根本から再定義される必要が出てきているのだと思う。



ニュースサイト全般が広告ビジネスとなってしまっている。こうなると、現場の実感を数字レベルで具体的直截的に感じ取っているのは広告営業の人間だと思う。たぶん彼らは、全体的な流れが大きく変わりつつあることは理解していると思う。メインストリームが大きく蛇行している。その流れに乗ればいい、ということも理解しているだろう。



でも、マネジメントが亜流になってしまったベクトルにしがみついている限り、企業としてのメディアの行く末は日腐れた澱み以外の何ものでもない、ということも感じとっているのだろう。引き伸ばされた袋小路を進むか、思い切って往来に出てみるか。



この夏以降、産経、毎日とMSNの関係の変化、それに連動するような朝日、日経、読売( ANY )の動きなんかを眺めていると、各社、そして新聞業界全体がどの流れを選ぶのか、問いを突きつけられていることがはっきりと見えてくるようだ。



この辺でやめておこう。あんまり調子にのって書いてしまうと各方面に迷惑をかけてしまう。……と考えてしまう時点で、既にわたし自身も“汚染”されているのかもしれない。でも、ほんとうにヤバイっすよ。

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