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2009.03.28

映画『市民ケーン』を妄想してみる

先ほど、湘南ビーチFMの「シーサイド・シアター」(再放送)でオーソン・ウェルズの『市民ケーン』について語られていた。家人が「一緒に観たよ」というけれども記憶にない。恥ずかしながらこの作品は観ていないと思う。で、さっそくググってみたら、goo映画にあらすじを見つけた。

市民ケーン(1941) - goo 映画

結末がわかるあらすじを読んでみたが、やっぱり記憶にない。だが、あらすじを読んだだけで、この作品がただものではないことがわかったような気がする。

もし息子が生まれていなかったら、つまり自分に子どもがいなかったとしたら、あらすじを読んだだけでは大した内容だとは思わなかっただろうが、息子のおかげで最後のシーンにぐぐっときてしまう。たぶん涙モノ。

息子がケーンのような人生を送るとしたらどうだろうか。私は「バラのつぼみ」に相当するものを息子に残してやれるのだろうか。ケーンは、最後の言葉を吐くときに果たして幸せだったのか、それとも哀しかったのか。そもそも果たして私自身に「バラのつぼみ」に相当するものなんて残っているのだろうか、それともやはり死ぬときに「バラのつぼみ」を思い出すのだろうか。そのとき、私は思い出したことで幸せを感じるのだろうか、それとも、もう取り戻せないものを思い出したことで哀しいのだろうか。

きっとそのときに得ている感情を、死につつある私は誰にも伝えることが出来ないし、もしかしたら最後の言葉を吐くことすら出来ないのかもしれない。それはそれで後腐れなく、謎を残すことなく、周りの人間にとっては幸せかもしれないし、もしかしたら死につつある私が「バラのつぼみ」を思い出したことを看取りつつある誰かが感づいて、でも私の最後の言葉を知ることが出来ないことにも気づいて愕然としたりするのだろうか。

思い出すのか思い出せないのか、自分がそうなるのかならないのか、息子の人生なのかそれとも他人事なのか――そんな存在と非存在との間をひらひらと意識が翻り続ける、けれども結論は永遠にわからない。この映画の最大の重心は、そんな意識が翻り続ける最初のシーンと最後のシーンに集約されていて、その瞬間のためだけにケーンというひとりの人間の人生がフィルムという時間に消費されている……のかな?

こんなぐあいに、観たこともない映画を勝手に妄想しつつ、あらすじを読んだだけでも感じ入ってしまう映画というのは、やっぱりすごいんだろうな、ぜひ観てみたいと思った。それとも単なる妄想に過ぎないのだろうか。それを確認するためだけにDVDを買ってもいいような気がする。意外と「なぁ~んだ」で済むかもしれないし( 絵本『はらぺこあおむし』を勝手に悲劇的結末に妄想したことがあるように )。

でも、スノードームを握ったまま最後を迎える主人公なんて、もうこれだけで実はウルウルかもしれない。

ところで家人は「観たよ」と云っているが、どうやらあらすじとは違う作品と勘違いしているようだった。




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