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2009.10.06

信頼する、信頼しない、信頼できない

(またぞろ)実名じゃないと信頼できないとか、ソーシャルメディアは信頼できないとかという話が流れてきたので、「信頼ってなんだろう」とふらふら考えてみた。

「信頼」というのは「信じて頼ること」とか「信じること」とか「まことと思う」とか「間違いないと思う」なんて辞書の意味なんだけど、本質的なことの周りをぐるぐる回ってばかりで、バシッと言い当てていないような気がしてもどかしい。だから自分なりに定義してみた( あくまでも仮説として、と最初に逃げを打っておく )。

「信頼」とは、自分の記憶と論理に適合するという判断なんだ。

だから、記憶が違っているとか、考え方の道筋が違っていれば、当然ながら「信頼」というものも変わってくる。だから、人によって「信頼」の対象が違ってくる。

たとえば、「政府 補正予算見直しで2・5兆円超確保」なんてロイター電が「信頼」の対象となるのは、政府の財政に関心があって、そういうニュースが少なからずもその人自身の考え方や行動に影響を与えると判断しているからだ。“デカ目”が気になってマスカラをどうやって塗ろうか、なんてことだけで頭が一杯になっている女子高生にとっては「どーでもいいこと」に過ぎない。

いっぽう、次の補正予算にどうやって食いついて多少なりとも分け前をいただこうか、なんて考えている新規事業担当のオッサンにとって、EXILEって何? 新しい育毛剤? みたいな状況だって十分ありうる。

オッサンにとっては補正予算について報じるニュースが「信頼」だし、休日の女子高生にとってはアイラッシュトニックが「信頼」だったりするわけだ。善いとか悪いとかじゃなくて、そういう具合に違うだけのこと。( この辺は適当に書いているので、あまり気にしないで各自ご存知の範囲内で適当に言い換えておくんなさい )

と考えてくると、「信頼」というのは「信頼する」とか「信頼しない」といった主体的な判断じゃなくて、現在の自分の文脈が自動的に導き出しているに過ぎないのじゃないか、と思われてくる。つまり「信頼できる」かどうか、にすぎない。そこには個人の意思なんてものは介在していなくて、その個人のそれまでの記憶の集積と、作り上げられてきた考え方の筋道に、その対象が適合するかどうかということだ。

たぶん、個人の意思なんてものを前提に考え始めると、たちまち「信頼」に対する“確信”が揺らいでしまって判断ができなくなる( 一種のゲシュタルト崩壊ってやつ?)。ふつう「信頼」なんてエイヤっと決めてしまっていることだからだ。いちいち「きょうのNHKニュースは信頼に足るかどうか」なんて考えないでしょ?

古臭い表現でぶっちゃけて云ってしまえば、“フィーリング”とか“テイスト”に合うかどうか。合うときは「信頼できる」のであって、合わないなら「信頼できない」じゃなくて「関係ない」なのだ。

「信頼できる」の反対は、その人の判断の埒外にあるので「どうでもいい」「関係ない」「知ったこっちゃない」という、判断軸から外れた状態なんだけど、それをうまく表現できないとか、そんな宙ぶらりんの状態は許せん! ということで「信頼できない」と云ってしまう。

そうすると、まるで自分が「信頼」の状態を主体的に選んでいるような錯覚に陥るので、ついつい「信頼する」とか「信頼しない」と偉そうなことを云っちゃうわけだ。

でも、真実だから信頼できるんじゃん」という意見があるだろう( 特にこの表現はマスコミの人が使いたがる )けど、真実なんてひとつじゃない。もし本当にひとつしかないのだとしたら、世の中に議論とか紛争なんて発生しないよ。誰もが「自分こそ真実だ」と思い込んで何種類もの「真実」が生まれてしまっているのが人間の状況だ。

まあ世間的に大体そんな感じだから、それが確からしいということにしようね――という任意的というか恣意的な取り決めが「真実だ!」とか「信頼しよう!」なのであって、それらが絶対ということはない。「真実」とか「信頼」というのは可能性に過ぎない。

ちょっと前までは「概ねこんなんじゃないの?」というのが、自分の周りを見回してみてもそんなになくて、まぁ一つか二つくらいだったのだが、ネットが登場して「こんなのもアリじゃね?」というのがたくさん見えるようになってしまった。だからニッチだとかロングテールなんてのが“発見”されて、マーケティングなんてのがもてはやされるようになる。

云ってみれば、ネットとか検索エンジンというのは「信頼」の可能性を爆発的に広げてしまった罪な存在なのかもね。

どんなにヘンな考え方であっても、ネットを流してみると、なんだか気になる、まぁ当てにしてもいいかな、信頼できるかな、みたいな情報が見つかるようになる。個人的には「外山恒一の法則」って云っているんだけど( どんなにヘンであっても、ある程度の得票数を集めうる )。

だから、「ネットで実名じゃないと信頼できない」とか「ボランティアが作った事典なんて信頼できない」っていうのを読んだり聞いたりすると、「そういう考え方もあるよね」とは思うけれども、それに賛同しようとか支持しようとか「絶対そうだよね!」だとかは思わない。そういうときの「信頼」ってそもそも何よ、と考え込んでしまうのだ。

「信頼」は可能性に過ぎない、という宙ぶらりんな状況が許せないのかな。確かに「信頼とはこれこれこうである!」ってバシっと決め付けちゃったほうが、社会的な物差しが(とりあえずは)一意に決まってマネタイズしやすいし、ね。パイが大きくなってマーケティングがやりやすくなるから。


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