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2010.03.14

「だめなものは駄目なんだ」がダメな理由

よく「そういう決まりだから」とか「みんながそうだから」という理由で何かを禁止されたり抑制されたり、つまりは我慢しなきゃならないことがある。

これは「取り敢えずはそういうルール、枠組みのなかで話をしようね」という取り決めに過ぎないことが多いんだけど、そういう認識をすっ飛ばして絶対的真理のように語っちゃう人がいて、時として困惑する。

もちろん、だからといって私が法律を破ろうとか、“世間的に”非常識なことをやろうとしているとかというわけではない。論理的に考えて「それって、ヘンだよね」と素直に思うのだ。簡単にいってしまえば「腑に落ちない」。

昔はそれでもよかった。そういうルールでみんなそろってやってこうね、仲良くしないといけないよね、我慢が大切だよね、と。

でも、それがダメな時代が来てしまっている。これはどうしようもない事実。ネットの普及で時間と空間が超越可能になってしまったから、これまで自分が所属していたムラの外から“非常識な”意見や理屈や主張が流れ込んでくるし、ネットを培地にしてそれらの“非常識”のハイブリッドが簡単に生み出され普及してしまう( 抽象的な表現だけど )。

ほんとにそうなの? ということが多くなっている。たとえば、終身雇用は安心、新聞は必須アイテム、デフレは悪、経済成長は必要、派遣をなくせ、少子化はヤバい、CO2を減らせ、ネットは怖い、などなど。

もっと生臭いものだと、非実在青少年なんてのがあるし、子どもとセックスしちゃだめ、なんてのもある。

法律で規制すると、存在が地下に潜って実態を把握できなくなるということも考えないといけないし、「法律で規制されるほど魅力的なことなんだ」という強化要因になる可能性だってある。まず結論ありきでルールが恣意的に決められてしまって、実は、そこには感情的な判断しかなかった、なんてこともあるかもしれない。それって人種差別と同じレベルだよね( まぁ、人種差別というシステムも、生存戦略としては理にかなっているんだけど )。

もちろん、法律や条例で禁止されていることをやってしまうのは論外で、その辺が人としての存在の境界線になるわけだ。だが、それとは別次元の問題として、果たしてその法律や条令は適当なものなの? という検証は必要だと思う。時代が変われば、それらのルールが陳腐化している可能性があるのだ。もしかしたらもっと緩めるべきかもしれないし、もっと締め付けを強化すべきなのかもしれない。

たとえば、「子どもとセックスしちゃだめ」の理由としては成長の問題とか、経済的問題とか、心に傷をおってしまうとかあれこれあるわけだけど、当の子どものほうがしたたかで大人よりも図太いのかもしれない( イマドキ女子中学生の"性事情"(週刊朝日) )。むしろ、ろくでもない相手とセックスして捨てられて立ち直れないとか、街金からカネ借りて相手に貢いでボロボロになってたりするのは大人のほうだったりして。

ちょっとズレるけど、それにしてもマスコミってのは、こういうネタを面白おかしく書き綴るよね。育ちが悪いんだと私的には思ってる。

さて、少子化対策の観点からすれば、若くてぴちぴちの女の子がたくさんの子どもを生んでくれるほうがいいわけで、そのほうが人口減少を食い止めて、労働人口を確保して、GDPを高めて世界一になることだって夢じゃない( 実際はそんなに単純な図式じゃないだろうけど )。

たとえば15歳で子どもを作るって枠組みで考えれば、30歳で孫ができて、45歳でひ孫ができて、しかも平均寿命の長さと医療技術の高度化と普及とで、子孫を守る上の世代が分厚くなるわけだし、30歳でさっさと自分の子どもの子育てから解放されるから、第二、第三、もしかしたら第四の人生まで謳歌できるだろうし、コテコテの40代50代でばりばり仕事ができていいんじゃないか――という考え方だってできてしまう。

まぁ、確かに自分の子どもが中学生でセックスしてますとか、子どもできちゃいましたとか、そんな具合になったら「なんぢゃぁ、そりゃぁ!」とうろたえるだろうし、「世間に顔向けできない」とか「ばかやろー!」とか云って思いっきりグーで殴っちゃうかもしれないけど、おそらくは、そういう反応はこれまでの私の生きてきた時代とか社会背景によるもので、乱暴な言い方をすれば“単なる脊髄反射”なのかもしれない。つまり、思考停止状態ということ。

「だめなものは駄目」という思考停止は、簡単だしラクだし、みんなで合意が取れていれば快適で平穏な社会生活を保証してくれる枠組みとして優秀に機能してくれる。それに、やっぱり「だめなものは駄目」なものはあるんだと思う。

でも、いつまでもその思考停止状態のままでやっていけるのかというと、そうとは断言できない。実際、情報のやりとりにコストがかからなくなったぶん、人と人の考え方のぶつかり方が激しくなってきて、そこで新しい考え方を取り込んだり作り出したりする場面が増えている。そのとき、「ルールはルールだから守るのがルール」なんて理屈がいつまでも通用するなんてのはナイーブ過ぎる。

ただ同時に、ネットの普及は“価値観の宇宙論的赤方偏移”を促進して価値観のニッチを拡大するから、そんな一種依怙地な考え方にも存在する場所が与えられるわけで、つまりはナイーブがナイーブなまま存在できる世界であることも確かなんだけど。

この問題は考え続けないといけないね。

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