自分を越えて、意味を見つけ出すこと。それが人かもしれない
このたびの震災で被災された方々にお見舞い申し上げるとともに
なくなられた方のご冥福をお祈りいたします
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やっぱり、私は自分から思考がスタートする性根持ちなので、計画停電でどれくらいの面倒が増えるのか、なんてことを考えてしまう。ああ、充電できるときに充電できるものを充電しとかなきゃ、なんて。
けど、やがて、そんな自分、自分の家族、自分の周囲、地域社会なんて枠を越えていって、思考を首都圏とか被災地の人達とか、壊されてしまったその人達の日常だとか、救援・救出活動をしている人達や海外からの支援だとか、そんなところに思いを広げざるを得ない。
私は東京にくらし、直接の被災者ではないし( 家人は帰宅難民になったけど )、持病持ちで化学療法の副作用に悩まされているのでボランティアに向かうこともできない。ウェブで何かやろうとしたってタカが知れているし、そもそも救援・支援サービスなんてのを素早く作ってしまう若い人達がたくさんいるので、私自体は何の役にも立たない。
せいぜい、オンラインで募金に寄付するくらいなのだ。
けれども、今回の震災と、それにまつわる人々、そして語られることを見聞きしていると、この東北関東大震災というやつに、何かの意味を見出さざるを得ない気持ちになるのだ。これは何かの罰なのではないか、何かを啓示しているのではないか、これは何かの転機なのではないか、と。
事象としては、ひとりの人間の運命とか生命が文字通りチリのように消し飛んでしまう、単なる自然現象なのだが、そこに自分から敷衍して、関わらざるを得なくなってしまった人々の思い、悔しさ悲しさ怒り、そして、平然と力を行使してしまう自然の意志なんてものを考えてしまう。
それが人としての理由なんだろう、と思うのだ。
始まったばかりで、まだまだ大変な日々が続くわけだが( 頭のどこかに“普通の生活”がちらついているんだけど )、これを再び「いつもの日常」に戻すのみならず、ゼロから考えつつ、「いつもの日常」のその先に進むにはどうすればいいのか、を、役に立てない私は考えたいと思うのだ。イライラする「いつもの日常」に戻るだけでは、失くしてしまったもの、亡くなってしまった者が浮かばれない( もちろん、この感覚だって私の身勝手かもしれないけど )。
3月11日に意味を見出すのも、意味を与えるのも、私たち人に与えられた課題であり、チャンスなのだと思う。