『ブラッド・メリディアン』( コーマック・マッカーシー著、黒原敏行訳、早川書房、2009 )
ようやくコーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』( 早川書房、2009 )を読み終えた。
登場する「判事」は、神なのだ。神であり、世界であり、言葉である。だから、彼の語ることは正邪も真偽も超えた向こう側にあって、語られるから語られるのである、としか言いようがない。人智の向こうにある。そしてタイトルの「血の子午線」は、時はまさに今であり、それである、としか言いようがないということ。それが生きていることの本質であり核心であり、語られた時点で既に過去となり本質から離れてしまっているということだ。
なんだか、すごい作品なのだ。言葉は言葉であり、時が時である、ただそのことを語るために、北米大陸南西部の砂漠と荒野という舞台装置、ばらばらと殺されるための無数の人物立てと、引き回し解体して食うための動物、投影幕としての「判事」をこしらえ、読者を東西南北に引きずり回す。それが作者の意識無意識はわからないけど、意図なのだ。「少年」が多くを語らないのは、黙考すべき読者の鐙(あぶみ)だからである。
物語られるものは血糊と脂と脳漿と骨と皮と頭皮と傷口、痛みと渇きと飢えと虚無にも似た喜び。同時に、対して、自然の静謐で静透でいよいよ高く透き通っていく青空の無関心さ。それらを結びつけるのは、人が時に川面に口付け、時に水筒に詰め、時に眺める海の波に見る水という存在だ。水なく渇き歩くことは、人と空とを分かつ時間である。人を空とつなげるのは、水のほかには夜の闇しかない。何が人の本質を作っているのかがわかる瞬間だ。
そのように考えると、この作品は砂と岩と石と乾燥と寒気の中を歩かざるを得ない人間を描くことで、闇と水について語っているともいえる。生きている人間の中にはそのふたつが常にある。
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翻訳の黒原敏行氏の力が素晴らしい。これはマッカーシーの『ザ・ロード』でも証明されている。