だんごむしは さわられると まるくなります。
来年に小学校入学の息子が、自学自習が目的のプリント学習指導の教室に通い始めて3か月が経つ。週に2回、保育園の帰りに母親に付き添われて通い、宿題のプリントを持ち帰ってきている。
毎日、朝と夜の2回、宿題のプリントをこなすよう習慣づけを始めたけれども、なかなか難しい。「これは、親のライフスタイルを問われてるよね」と家人と意見が一致している。
朝、朝食の皿を洗っていると、食卓テーブルから息子の読み上げる声が聞こえてくる。
息子「だんごむしは さわられると まるくなります」
母親「ちがう。よく見て読んで」
息子「?」
こういうことらしい。
(問題文)
だんごむしは さわると まるくなります。
↓
(息子の読み)
だんごむしは さわられると まるくなります。
日常によく見られる、というか、耳にする言い回しである。「猫は撫でると目を細める」とか「風船を針でつつくと割れる」とか。
そこでふと思った。息子が読み上げた「誤答」が日本語としては適切なのではないか。「だんごむし」が「さわる」のではなく、(ひとが)「だんごむし」に「さわると」「だんごむし」は「まるくなります」なのであって、つまりは問題文はこうなり得る。
→ だんごむしは ( ひとが )さわると まるくなります。
ここには「だんごむし」だけではなくて、行為者として( そして恐らくは観察者として )の“ひと”の2者が存在している。
いっぽう、問題文における一人称としての「だんごむし」を読み取った息子は、「だんごむし」視線で「さわ“られ”る」と受身で読み取った。ここには「だんごむし」にとっての世界観が現れているとはいえまいか。
「だんごむし」にとっての“ひと”とは、遥か空の高みから降りてくる未知の存在、超越的な何ものかであって、「だんごむし」にとっての理解の範囲を超えているのだ。だから、そこには「だんごむし」対“ひと”という2者による構図はなく、あくまでも「だんごむし」の主観だけしか存在していない!
ということで、「さわると」を「さわられると」と読んだ息子は、無意識にそんな世界構造を、彼自身の頭の中に瞬間的に構築したのかなぁ、と思いながら私は朝食の皿を洗い上げたのだった。
たぶん、こんなところまで考えて問題文を作ったりはしないよネ。
それに、回答する子どものほうも、いちいちそんなこと頓着せずに、普通に、日常的に一般的に回答すればいい。そうすれば取り敢えず無難だし、目上の指示に従うにはそれで十分なんだから。そうすれば世界は取り敢えず丸く収まるし波風立たないから。