『草原の椅子』から抜粋
( 宮本輝著、幻冬舎文庫 )
読んだのは、もう何か月も前になるけど、その時にピンときた箇所から幾つかをメモとして。
●上巻
p.62
「人情のかけらもないものは、どんなに理屈が通ってても正義やおまへん」
ともすれば理屈であれこれ言いたくなるけど、それは人生経験とか知恵とかがないから理屈に頼りたくなるんだなぁ、と気づいたのは40歳過ぎてからでした。ナイーブなほど、人情から距離を置こうとするんだなぁ。それは、若者にとってみれば「自由」で、「年寄りはシガラミに絡め取られている」と云いたくなるだろうけど。
p.142
「……反復すること。いやになるくらい反復すること。これは、あらゆる科目の勉強における鉄則だ。そうしてるうちに、それが自然に応用できるようになるんだよ」
これは勉強だけではなくて、生活のあらゆることに云えますね。うちの6歳の息子に「おうちに帰ってきたら手洗いとウガイ」と繰り返し言い続けたところ、いつの間にか玄関から直行して自分からやるようになりました。親が子どもにできることは、とにかく良い習慣をたくさん身につけられるようお膳立てすること。馬を水辺に連れて行くこと。倦まず弛まず、水辺まで連れて行くこと。
p.316
「安心してなさい、か。いい言葉だなァ。安心してられるってことが、人間にはとても大事なんだよ」
特に、子どもにとって「安心してなさい」は重要だと思います。なので、海外のニュースサイトで知る中東の喧騒を見るたび、ああ、自分はここの子たちに何ができるんだろう、と切なくなります。
●下巻
p.29
我々、日本人は、いつのまにか、畏敬の念というものを失ってしまったような気がする。あらゆるものに対して、畏敬の念を忘れた。この自分もそうかもしれない。死の砂漠に立って、果てしない風紋を見れば、あらゆるものに対しての畏敬の念が甦るだろう。
あらゆる事物に神様を見い出せていた私達は、ある意味幸運だったのでしょう。西垣通氏曰く「モバイル宗教」のような、“聖典”という装置を持ち歩くことで神を普遍的にすることができるというのは、人間の勝手さ加減に神を適合させることができるという、云ってみれば人間の傲慢さの現われなのかもしれません。
九十九神(つくもがみ、付喪神)のように、様々な事物にそれぞれの神様を見出すというようなことは、説明できないものを飲み込むという一種の不条理なわけですが、同時に人間に対して覚悟を迫るということなのでしょう。「ナイーブ」の対局にあるのだと思います。そこにあるから、ある。そうだから、そうなのだ。そのような事情を飲み込むということです。
そこに、小利口に理屈を組み込もうとするから、ワケが分からなくなる。「なぜ生きているんだろう」という質問ほど不毛なものはない、と気づいたのは最近のことです。小利口な理屈は、状況に対する覚悟を鈍らせる原因となります。
p.68
「安心しろ。お父さんも、トーマも弥生ちゃんも富樫のおっちゃんも、みんな圭ちゃんを大好きで、圭ちゃんの味方だよ。安心してたらいいよ。何も怖いことなんかない。圭ちゃんは、これからもっともっと丈夫になって、よく食べて、よく寝て、友だちをたくさん作って、思っていることを何でも喋れるようになって、サッカーも上手になって、宝島に行くんだ。自分の宝島が何か、どこにあるのか、いつかわかるさ」
p.337
俺のいるところは、いつでもどこでも草原であり、俺は絶えず何物かに守られている。だから安心していればいい……。
p.400
「正しいやり方を繰り返しなさい」
「正しい」というのは、あくまでも主観的なものであって、人によって違ってきます。けれども、その「正しい」ことを選びとるのは自分自身で、そこに各人の覚悟が問われるわけです。正解だとか間違っているとか、そんなことは二の次で、極端な話、どうでもいいことなのです。自分にとっての「正しい」を繰り返すこと、そこに覚悟、最近の流行り言葉で云えば“コミットメント”が定められるということ、それが大切なわけです。
それが、先々で気づくであろう過ちを正す軸足となるわけです。取り敢えず覚悟を決めないと、何が自分にとっての“相応しい”なのか、判断すらできません。