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2016.03.11

5年前。2011年。震災。

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▲2011年3月17日。計画停電のため運転を止められた自販機と張り紙。

その日、抗がん剤治療中の私は午前中は病院へ行き、午後は会社に出ようと思っていました。しかし、薬の副作用で足指があまりにも痛く、また気持ちも悪く、とても会社どころではないので、職場に連絡をして、正午前には家に帰ってきたのでした。

午後、居間のソファで、タイムスタンプが 14:47の職場のメールを読み始めたところで揺れが始まったのでした。かつて経験したことのない揺れです。いつ終わるかわからず、もしかしたらこのマンションが崩れ落ちるまで、どこまでも揺れが大きくなるのではないか――初めて地震に対して恐怖を感じました(神奈川県出身なので地震には馴れていました)。

すぐにテレビを付け地震速報を確認です。結局その後、テレビは数日間つけっぱなしとなりました。

状況を確認し、保育園に息子を迎えに行けたのは不幸中の幸いです。もし私が病院からそのまま職場に行っていたら、3歳の息子は保育園で夜を過ごしたことでしょう。いっぽう、仕事に出ていた家人は電車が止まってしまったので職場に泊まり、眠れない夜を過ごして翌朝ふらふらになって帰宅しました。

すぐに保育園に行けたわけではありません。小一時間、部屋に座り込み、唖然としてテレビのNHKを眺めていました。テレビ画面の中の強烈な映像と、一人きりの心細さと、このまま外に出て、次の大きな揺れが来たらどうしよう、という怖ろしさで動けませんでした。この辺は木造の密集地なので、マンションの中のほうが安心です。それに、生まれて初めて腰が抜けてしまったというのもありました。

息子を迎えに行った保育園では明かりが消え、暗い教室の真ん中に先生と、防災頭巾を被った子どもたちが集まり、先生が本を静かに読み聞かせしてくれていました。息子を受け取った私は、私と家人それぞれの両親に無事を連絡したのでした。その日帰れなくなった家人とも PHSで連絡を維持できたので、未だに PHSを手離せず、スマホとの2台持ち状態のままです。

その後、物流が滞ったり、放射能に怯えたりの日々が始まるわけですが、それはまだ続いているのですね。東京に居ると、そんなことを忘れがちですが。けど、思い出しては、意味を、何をすべきかを考え続けないといけない。そう思います。

(2011-03-14)自分を越えて、意味を見つけ出すこと。それが人かもしれない: 機械太郎の東京静止空間

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▲2011年3月11日、午後4時過ぎ。防災頭巾を被って保育園から帰ってきた息子。テレビはNHKに合わせてつけっぱなしに。

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▲震災翌日、「つなみごっこ」で遊ぶ息子。しかし笑みは無く。

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▲2011年3月15日。近所のスーパー前には、自転車が車道にあふれるほど。この時点で、店の商品棚には欠品が目立ち始めていた。

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▲2011年3月17日。都庁下のパスポートセンターには長蛇の列。


▲福島第1原発の報道を見て「しょうぼうしさん、がんばれ」と当時3歳の息子が描いた。炎を吹き上げる原子炉建屋と、較べて小さい消防車、空にはヘリ。

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