2011年3月11日の日記
(2年前の3月11日に書きかけだったエントリです。2011年の震災翌日にメモしたものです。名前など書き換えてありますが概ね、書いた当時のままです)
2011年3月12日(土) 8時45分 ダイニング
昨日からのことを書いておこう。
午後2時47分の 職場からのメールを読んでいたら揺れ始めた。どこまで揺れが激しくなるのかわからない、というのが恐怖の主な理由だったと思う。揺れがおさまるまで長い時間がかかった。物がぶつかったり落ちて割れたりする音がする。あとで見ると、納戸のたんすの上の靴箱などが落ちていて、シェービングカップが粉々だった。コロンの瓶がすべて落ちて、一番のお気に入りのブルガリ・ノッテの首が折れて、本の上にこぼれている。iPhone同人誌の作り方と、KORGの入門本が被害にあった。仕方が無いのでカバーを廃棄。そのほか、アスプルンド本がやられているかんじ。
洗面所のバケツが落ちている。息子の浴室おもちゃが洗面台の中に落ちている。排水口に網をつけておかないと小間物が入ってしまうな、と思った。今回は大丈夫。
ガスが止まっていたので、メータのボタンを押して復帰動作。確認が終わるまで3分かかるそうだけど(ネットで東京ガスのページで調べた)、途中で給湯器で「戻ったかな」と試したので2回くらいやり直した。
ところで、地震直後にテレビをつけると、地上波のNHK総合が真っ暗。なのでBS1に切り替えたところ、大地震だとわかる。取り敢えずカミサンにメール。無事を確認して神奈川、長崎にメール連絡。息子が心配だったけど、余震があるようなのでしばらくテレビとラジオをつけて様子を見た。
1時間弱で、抗がん剤の副作用で出来た傷を保護しているテープを交換して、その頃にカミサンから「(息子を)迎えに」メール。ジャンパー羽織って帽子をかぶり(頭部保護)、小ショルダーに絆創膏とかスマホとか入れて、背中には念のため息子の紙パンツとウインドブレーカーの入ったリュック。
保育園に迎えにゆくと玄関の扉が開いていて、ぼつぼつお母さんたちが迎えに来ている。中は明かりが消えていて、先生たちは白ヘルメット。息子も含め2歳組の部屋に集まり、オレンジ色の保育園の防災頭巾。先生が絵本を読んであげていた。
荷物は既にまとめられていて、息子にコートを着せ、靴下、そしてベビーカーで退出。
つけっぱなしのテレビのうちに帰ってみると、ますます被害がひどくなっている。
大津波をリアルタイムで見るなんて、多分これが最初で最後なんじゃないだろうか。マグニチュード8.8。
東京の鉄道はすべて止まっていて徒歩点検のため復旧見通しがわからず。カミサンの働く大学の職員は講堂に集められていた。結局、学校で夜明かしして、カミサンは今朝の7時前に帰宅。いまは眠っている。講堂の椅子は肘掛があるので横になれず寝不足で気持ち悪い、頭が痛い、と。
息子はそんなことはお構いなく、ケロッとしている。今日はスイミング・スクールを休ませる。
僕は午前2時半まで起きてニュースを見ていた。カミサンが泊まりを決めたのは午前0時頃だったろうか。結局、東京メトロと西武鉄道は0時前に復旧し始めたけど、駅の混雑具合がわからないので動かないほうがいいだろう、との判断。
昨日は、午前中に病院だったけど、それで足が痛くなったので会社に行くのを中止、自宅に戻ってきていた。不幸中の幸いだった。揺れの後、腰が抜けた状態になった。これが、腰が抜けるというやつか、と感心していた。
twitterは地震関係の「拡散希望」tweetであふれている。2nnも地震に染められている。
三陸海岸の低地は全滅気味。地盤沈下して海が入り込んでいるらしいところもある。太平洋で連続してM7クラスの地震が続き、そのたびに津波が押し寄せている感じ。いまも津波が押し寄せているらしい。気仙沼は大火事、福島第一原発があぶないらしい。第二原発も緊急事態。
二つの原発が破裂したら大変なことになるが、その可能性が出てきた。
未明4時半頃から、新潟・長野辺りでM6地震。その後も余震が続いている。一気にこの辺りが震え始めたという感じ。しばらくの間、日常生活というものがなくなってしまった感じ。
テレビで、死亡者の氏名が十人くらい放送されるけど、宮城では200〜300人の遺体が発見されるとか、夜が明けてみると死者不明者あわせて千人を超えていることがわかって、既に個々人の名前なんて無意味に思われる大規模な災害だと思った。もう、こうなると個人の人生とか運命とか吹き飛んでしまっている。
一気に日本の「これまで」が吹き飛んでしまった。
何のバチが当たったんだろう、と思ってしまう。いろんなことが降り積もって、そのバチが一気に当たったのか、と。
会社の人たちも帰宅できなかったんだろうな。外回りが多い社長は外出だったかもしれない。
身勝手なのかもしれないけど、本当に自宅に居て幸いだったと思う。週末金曜日だったのも幸いしたかもしれない。取り敢えず東京については、土日で修復するゆとりがあると思う。そして僕は在宅状態で助かったのだと思う。これで僕も会社だとしたら、息子は保育園で夜明かししたことだろう。僕は副作用でぴりぴりと痛み、化膿した指の足で自宅まで歩いて帰ってきたかもしれない。
九州の義父や義妹から「(息子は)無事か」のメールや電話。息子は本当に誰もに愛されている。
従兄弟のところは奥さん、従兄弟ともに勤務先から帰れず、上の子が中学生で自宅でひとりきり、下の子は保育園で夜明かし状態だったらしい。奥さんの実家は気仙沼。
そういえばSちゃん、Hさんはどうしたろうか。(大学時代の友人で仙台に居住、その後 Facebookで無事を確認)
津波は種子島にも到達しているらしい。太平洋岸は北海道から沖縄まで津波警報、大津波警報で赤くなっている。
2011年3月12日(土) 10時9分
秋田沖でも地震。浅いところでいっせいに揺れ始めている。新島神津島でも。
2011年3月12日(土) 10時28分
福島原発のどちらかは、ガス抜きを始めたそうだ。大丈夫大丈夫、とアナウンスされているが、風向きから判断しているのかな。……と思ってネットで東北のアメダスを開いたら、全域欠測状態。福島以北で「XX」が並んでいる。北海道も欠測だから、福島あたりでラインが切れているんだろう。ネットもつながらないのだろう。400万世帯以上が停電なので、頼りは乾電池のラジオだけ、という状態らしい。ケータイもスマホも、こうなると無力だ。