書籍・雑誌

2013.07.04

『草原の椅子』から抜粋

( 宮本輝著、幻冬舎文庫 )

読んだのは、もう何か月も前になるけど、その時にピンときた箇所から幾つかをメモとして。

●上巻
p.62

「人情のかけらもないものは、どんなに理屈が通ってても正義やおまへん」

 ともすれば理屈であれこれ言いたくなるけど、それは人生経験とか知恵とかがないから理屈に頼りたくなるんだなぁ、と気づいたのは40歳過ぎてからでした。ナイーブなほど、人情から距離を置こうとするんだなぁ。それは、若者にとってみれば「自由」で、「年寄りはシガラミに絡め取られている」と云いたくなるだろうけど。


p.142

「……反復すること。いやになるくらい反復すること。これは、あらゆる科目の勉強における鉄則だ。そうしてるうちに、それが自然に応用できるようになるんだよ」

 これは勉強だけではなくて、生活のあらゆることに云えますね。うちの6歳の息子に「おうちに帰ってきたら手洗いとウガイ」と繰り返し言い続けたところ、いつの間にか玄関から直行して自分からやるようになりました。親が子どもにできることは、とにかく良い習慣をたくさん身につけられるようお膳立てすること。馬を水辺に連れて行くこと。倦まず弛まず、水辺まで連れて行くこと。


p.316

「安心してなさい、か。いい言葉だなァ。安心してられるってことが、人間にはとても大事なんだよ」

 特に、子どもにとって「安心してなさい」は重要だと思います。なので、海外のニュースサイトで知る中東の喧騒を見るたび、ああ、自分はここの子たちに何ができるんだろう、と切なくなります。


●下巻
p.29

 我々、日本人は、いつのまにか、畏敬の念というものを失ってしまったような気がする。あらゆるものに対して、畏敬の念を忘れた。この自分もそうかもしれない。死の砂漠に立って、果てしない風紋を見れば、あらゆるものに対しての畏敬の念が甦るだろう。

 あらゆる事物に神様を見い出せていた私達は、ある意味幸運だったのでしょう。西垣通氏曰く「モバイル宗教」のような、“聖典”という装置を持ち歩くことで神を普遍的にすることができるというのは、人間の勝手さ加減に神を適合させることができるという、云ってみれば人間の傲慢さの現われなのかもしれません。
 九十九神(つくもがみ、付喪神)のように、様々な事物にそれぞれの神様を見出すというようなことは、説明できないものを飲み込むという一種の不条理なわけですが、同時に人間に対して覚悟を迫るということなのでしょう。「ナイーブ」の対局にあるのだと思います。そこにあるから、ある。そうだから、そうなのだ。そのような事情を飲み込むということです。
 そこに、小利口に理屈を組み込もうとするから、ワケが分からなくなる。「なぜ生きているんだろう」という質問ほど不毛なものはない、と気づいたのは最近のことです。小利口な理屈は、状況に対する覚悟を鈍らせる原因となります。


p.68

「安心しろ。お父さんも、トーマも弥生ちゃんも富樫のおっちゃんも、みんな圭ちゃんを大好きで、圭ちゃんの味方だよ。安心してたらいいよ。何も怖いことなんかない。圭ちゃんは、これからもっともっと丈夫になって、よく食べて、よく寝て、友だちをたくさん作って、思っていることを何でも喋れるようになって、サッカーも上手になって、宝島に行くんだ。自分の宝島が何か、どこにあるのか、いつかわかるさ」


p.337

 俺のいるところは、いつでもどこでも草原であり、俺は絶えず何物かに守られている。だから安心していればいい……。


p.400

「正しいやり方を繰り返しなさい」

 「正しい」というのは、あくまでも主観的なものであって、人によって違ってきます。けれども、その「正しい」ことを選びとるのは自分自身で、そこに各人の覚悟が問われるわけです。正解だとか間違っているとか、そんなことは二の次で、極端な話、どうでもいいことなのです。自分にとっての「正しい」を繰り返すこと、そこに覚悟、最近の流行り言葉で云えば“コミットメント”が定められるということ、それが大切なわけです。
 それが、先々で気づくであろう過ちを正す軸足となるわけです。取り敢えず覚悟を決めないと、何が自分にとっての“相応しい”なのか、判断すらできません。


2013.07.03

「駐車場に神話が根づく」

時々、未だ見ないこの先の世界に生まれているであろう伝説とか神話とか、そんなものに思いを馳せたりする。そして、その時に思い出すのは「駐車場に神話が根づく」という、ウィリアム・ギブスンの言葉。これは彼の『モナリザ・オーヴァドライヴ』で、アンジイづきの監督ディヴィッド・ポープが語っているのだが、ギブスンの短編「ガーンズバック連続体」にも繋がる“未だ訪れない未来における郷愁”もしくは“失われた過去における未来”というやつなのかな。失われたものの記憶と、失われるであろうものの記憶という点ではレイ・ブラッドベリにも通じる感覚かもしれないが、まあ、それはまた別の話。

以下、メモ的に引用。

There's a pathos to it, when you think about it. I mean, every bit of it's locked into orbit. All of it manmade, known, owned, mapped. Like watching myths take root in a parking lot. But I suppose people need that, don't they?

考えてみれば、哀愁(ペーソス)が漂ってるんだよ。つまりさ、どれもこれも、軌道に組み込まれているわけで。すべて人工で、既知で、所有され、調査ずみ。まるで駐車場に神話が根づくのを見ているようなものさ。でも、人間てのは、そういうことを必要とするんだろうな
(『モナリザ・オーヴァドライヴ』ウィリアム・ギブスン著、黒丸尚訳、早川書房 1986)


『ほしのうえでめぐる』(倉橋ユウス著、BLADE COMICS)

『ほしのうえでめぐる』(倉橋ユウス著、BLADE COMICS)

このところ気分的にガス欠気味でマンガを読む気が起きないのだが、取り敢えず風呂あがりに湯冷ましで積ん読の中から手にとって読んでみたら面白かった。第1巻読んで時間切れ。第2巻を楽しみにしている。

出版社のマッグガーデンは、天野こずえのARIAシリーズ以来ぼちぼち読んでいるかなぁ〜。天野こずえの『あまんちゅ!』をアニメ化するなら、テーマ曲は山下達郎の「踊ろよ、フィッシュ」(1987)がいいかなぁ、と思っている。

ところで、軌道エレベーターで年代記的といえば大石まさるの「水惑星年代記」シリーズ、そして忘れてならないのは、アーサー・C・クラークの『楽園の泉』。これらを外してはいけない。軌道エレベーターのアイデアを初めて知ったのは今から30年くらいまえの雑誌『メカニックマガジン』だったけど、未だに実現されていないことに驚きを感じるよ。

かつての「宇宙開発競争」の時代は、実は地べたを這いつくばっていた時代なんだね。地べたを這いつくばっているから、空ばかり見上げていたのだろう。可燃物燃やして空に上るのを卒業するのは、いつになるのだろうか。人類が星海に弾けるのはいつなんだろうか。

【追記】
読了。
ちなみに両手とも「ますかけ」です。


2012.10.18

『ブラッド・メリディアン』( コーマック・マッカーシー著、黒原敏行訳、早川書房、2009 )

ようやくコーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』( 早川書房、2009 )を読み終えた。

登場する「判事」は、神なのだ。神であり、世界であり、言葉である。だから、彼の語ることは正邪も真偽も超えた向こう側にあって、語られるから語られるのである、としか言いようがない。人智の向こうにある。そしてタイトルの「血の子午線」は、時はまさに今であり、それである、としか言いようがないということ。それが生きていることの本質であり核心であり、語られた時点で既に過去となり本質から離れてしまっているということだ。

なんだか、すごい作品なのだ。言葉は言葉であり、時が時である、ただそのことを語るために、北米大陸南西部の砂漠と荒野という舞台装置、ばらばらと殺されるための無数の人物立てと、引き回し解体して食うための動物、投影幕としての「判事」をこしらえ、読者を東西南北に引きずり回す。それが作者の意識無意識はわからないけど、意図なのだ。「少年」が多くを語らないのは、黙考すべき読者の鐙(あぶみ)だからである。

物語られるものは血糊と脂と脳漿と骨と皮と頭皮と傷口、痛みと渇きと飢えと虚無にも似た喜び。同時に、対して、自然の静謐で静透でいよいよ高く透き通っていく青空の無関心さ。それらを結びつけるのは、人が時に川面に口付け、時に水筒に詰め、時に眺める海の波に見る水という存在だ。水なく渇き歩くことは、人と空とを分かつ時間である。人を空とつなげるのは、水のほかには夜の闇しかない。何が人の本質を作っているのかがわかる瞬間だ。

そのように考えると、この作品は砂と岩と石と乾燥と寒気の中を歩かざるを得ない人間を描くことで、闇と水について語っているともいえる。生きている人間の中にはそのふたつが常にある。

◇ ◇

翻訳の黒原敏行氏の力が素晴らしい。これはマッカーシーの『ザ・ロード』でも証明されている。



2012.07.12

『神様のみなしご』(川島誠、角川春樹事務所 2012)

『神様のみなしご』(川島誠、角川春樹事務所 2012)

本の中で語るのは孤児ですが、語られているのは大人です。

きっと大人というのは、過去にではなく、未来に押し潰されてしまうのでしょう。
まっさらなはずの未来に、これまでにためこんだ過去のガラクタをたくさん自分で放り込んで「ほら、どこへも行けなくなった」と云ってウンザリできるのが大人かもしれません。
ウンザリするけれど、自分の匂いがするし、見知った景色に似ているので、きっと安心できるのでしょう。くたびれ切った安心感ですけど。

そんな大人たちを、“孤児院”の子ども達が淡々と語ります。

2011.10.18

(感想)『フレーミング』(タイラー・コーエン)

フレーミング 「自分の経済学」で幸福を切りとる
タイラー・コーエン[著]
久保恵美子[訳]
日経BP社 2011

「自閉症」を理解の“フレーム”としているため、文中には頻繁に「自閉症」という言葉が出てくるが、自閉症理解の本ではない。「自閉症」はあくまでもモチーフであり、演繹の支点として位置づけられている。人間が多様性を獲得するための戦術として採用してきた、物事への接し方の昨今の状況について述べている。つまり、ネットの登場と普及が、人間に新しい視点・視野・視線(=フレーム )を与えてくれたということ。

最終章では、日本、フィンランド、宇宙と視点を後退しつつ視野を広げながら論じているのに——「われわれの住むこの地球をはるかに越えて広がっていくだろう」(p.277)——、最後の最後で「このように、星を見上げるときには、さまざまな感情を選ぶことができる。」(p.283)なんて具合にサッと横にどいて逃げてしまっているところは、非常に惜しいと思う。このおかげで、精神論の範囲を離脱できずに危うく疑陽性トンデモ本になりかけているように感じた。

まぁ、途中には怪しい論理展開がいくつかあるんだけど、ま、いいや。

多様性は人間の意志が原因ではなく ( そんなものがあるとすれば )宇宙の進化の本質なので、そこに含まれる人間が存続し続けようとするなら、多様性を獲得する方向に変化していくのは当たり前なのだ。そんなこと云わなくても、ちょっと大きめのサイトのメトリクスやったことがある人とか、クリス・アンダーソンのロングテールを知っている人だったら、直感的に理解していたりするんだよね。

ネットが個人の欲望を加速し、微視的に領域を拡大してくれていることに気づいている人には、云われるまでもないこと。

ということで、この本の主旨には賛同できるのだが当たり前すぎて本に書くほどのことではないし、結論的に掘り下げが浅いように思われる。ここまでして大分(だいぶ)に書くのであれば、もう少し意味を感じさせてくれてもよさそうなのに、と思った。

ん〜、期待しつつ読んだんだけど、まぁ、そうか、やっぱ、そんなもんだよな、て。

ああ、タイトルの「自分の経済学」の部分は、ほとんど意味ないです。自分的には経済学の本ではありませんでした。ただし、経済学が心理学の視点に立つとすれば切線を引けるかもしれない。でも、具体的な施策とかハックとかは期待しないように。自分で考えましょう、と、これもまたありきたりな結論。( そんな特効薬が見つかったらノーベル賞だな )

2011.03.30

やっぱりでかい本棚が欲しい。

いまさらだけど、昨日到着した『グローバルリーダーの条件』( 大前研一、船川淳志共著、PHP研究所、2009年 )を読了。対談で軽い内容だった。これまで読んできた大前研一の復習のような感じで、まぁ心情的には刺激されてイイんだけど、本当に役立つ本かというと疑問符。大前とかドラッカーとか普通に読んでいる人には不要だな。時間の無駄かもしれない。だから一刷なのかな。

それに、大前、船川両氏の一種“馴れ合い”的雰囲気にも違和感を感じた。編集のせいだろうか。ちょっと甘すぎない? もうちょっと苦くてもイイんだけど。

むしろ対談とかじゃなくて、インドの誰々はこうだった、とか具体的な事例を列挙したケーススタディ本とかの方が面白いんじゃないかな。これまでの大前本から、そんなもの達を抜き出して一冊の本として再構成するといいかもしれない。

ちなみに自分の中では、大前研一氏は既にドラッカー化している。

もひとつついでに、手元に長らく転がっていた藤澤克己著『いのちの問答』( 幻冬舎、2011年 )は、買っては見たけれど、いまは読む時期じゃないなぁ、と。四半世紀前の“悩める大学生”だった頃ならいざ知らず、今ではこういうのを既に卒業していて、あとは年老いて何もできなくなったときに読むものかな、と。冬の陽だまりや夏の木陰のような本だ。

歩けるときには歩けばいい。

それにしても、電子本よりはヤッパリ紙の本の方が好きだなぁ、と思うのだ。紙の本を手にとってソファにくつろいで、ぼんやりと読んでいくというのがいい。iPad も Kindle も素晴らしいけれども、紙の本が与えてくれる手触りとか音とか匂いとか、そんなものたちが素敵なんだと思う。読書体験って、実は五感を無視できない? これからさき紙の本は香りで勝負するようになるかな。茶色く変色している、触るともろくも壊れてしまいそうな古本の甘い香りが好きだ。

だから、私にとっては電子本はあくまでも次善の策。できれば広大な書棚空間を手に入れて、自分の本はすべてそこに収納する、という生活を送りたいもんだ。図書館に棲みつくという渡部昇一的生活が理想。まぁ、高校時代に渡部昇一読んで、おかげで「社会人」失格的人生になっちゃったんだけど……それは余談。

いまの私は貧乏なので、プライオリティが低いと判断した本は自炊している。2千冊を仕分けて6割は自炊、が現在の目標だけど、なかなか進まない。今回の震災で崩れた本の山もそのままだし……。さきの『グローバルリーダーの条件』と『いのちの問答』は自炊する。残念ながら空間占有してまで保存する本ではない、いまのところは。

内容が悪いということじゃなくて、いまの私にはあまり必要ない、ということ。“すべての存在は自らの存在を不要にすべく他者に向けて機能する”という視点で見れば既に彼らは目的を達している。


2011.03.10

街の本屋がヘタレだ。生き残るのは至難のわざ?

先日、私の勤務する会社が入っているビルの書店が店を畳んだ

東京・千代田区にあるビルの中の一角にある小さな書店だったが、ビジネス書を中心とした品揃えで、昼休みや仕事の合間には結構役立つ存在だったと思う。昼休み時間には店内がかなり混んでいるように見えた。私自身はここ数年、Amazonで買うようになっていたけど、ちょっとショック。この跡地はどうなるのか知らない。ある日、入口のガラス戸に閉店を知らせる貼り紙が一枚、電気を消されて暗い店内には書棚と本がそのまま残されていた。

ここはバリバリの“都心”の一等地で、同じビルにある飲食店街に周囲のオフィス街からオフィスワーカーが昼飯を食いに大勢やってくる、というような場所なのに。実は、ビジネス書とか売れてないのかな。私と同じように、みんな Amazonに注文するのかな。

いっぽうで近所の商店街にあった書店は数年前にさっさと店じまいしてしまったけど、個人的に問題外だった。欲しい本や雑誌を置いていない。マンガの単行本は結構そろっていたけど。

じゃぁ、かろうじて商圏に引っかかる池袋のリブロやジュンク堂はどうかというと、基本的に出向くのが面倒くさい。通勤経路上だけど、地下鉄降りてわざわざ寄るなんてゆとりはない。そもそも、あの池袋駅の混雑の中を歩くのが嫌だ。加えて、店としては努力しているんだろうけど、いわゆる「書店員のセレクト」なんてのが煩わしい。人の読書の趣味とか、私には関係ない。ポップなんかじゃなくて、品揃えと排架の妙で勝負してもらいたいな、私としては。

どんな本があるか、どんな内容なのか、この本を読んでいる人はどんな本を読んでいるのか、という情報はネットで手に入ってしまう。

ところで、出版社のウェブサイトは情報の更新が遅いことが多いね。雑誌とか発売日に内容をチェックして買うか買わないかを決めたいんだけど、昼休みにウェブサイトに行ってみると前号の表紙が“最新号”なんて銘打って掲げられていたりしてガッカリする。

だから、雑誌の最新号をチェックするのに Amazonを使っている。表紙の写真が出ていて、それを見れば内容のおおよその見当がつく。それに異なる出版社のものでも、Amazonで網羅的に見ることができてしまう。だから、Amazonで雑誌を買ってしまう。当日か翌日には自宅や職場に配達してくれるし。

たとえば雑誌『クウネル』の表紙画像とかはこんな感じで、拡大すれば表紙の文字が読める。

拡大できるクウネルの表紙画像@Aamzon

だからといって出版社のみなさん、「表紙写真で内容がわからないようにしよう」なんて考えないほうがいいですよ。わからなくなったら買わなくなるだけだから。

そもそも自分に時間がない。仕事して、子供の相手して、家事をやって、ビデオやテレビを見る時間もないのに、書店で本を探すとか眺めるなんてのは論外。自宅の最寄り駅に大型書店があればいいかもしれないけど、実際は無い。

( ところで地下鉄の一見ムダな空間を書店にする、ってのはどうですか? 地下鉄を在庫の流通ルートにしてやればよさそうに思われる。道路占用許可とか何とか云っているうちに、日本の知的レベルとか生活レベルがどんどん落ちるだけですよ > 行政の人々)

大学生時代、住んでいた茨城にはでかい駐車場つきの書店があった。大学町で周囲には国や民間の研究所がたくさんあって、学生、教員、研究者といったぐあいに客層がそろっているので、本の品ぞろえにハズレが少なかった。学生だったから時間もあったので、本屋に入り浸ってたなぁ。本屋さんていいなぁ、と子どもの頃から思っていたから、あんな書店が身近にあるのがうれしかった( 友朋堂がお気に入りだった )。

いっぽうで、いま住んでいる地元には大学が三つもあるのに、どうして本屋過疎地なんだ? というのは置いておこう。学生が本を読まなくなった、なんてのも放っておこう。地元書店が生き残るには、地域性を根拠とした品揃えで勝負するのだろうが、当地のように古くからある住宅街の中に学生街が混じりこんでいる立地条件は難しいかもしれないし、だから適当な書店がない学生さんは池袋に出て本を買っているんだろうし( 学生生協もあるか )。

まぁ、いずれにせよ何らかの特徴がないとやっていけないは確かなことで、じゃぁ、最後の手段=「安売り」はどうなんだろ。再販価格の維持とかいうアホらしい古臭いルールがあるから、結局のところ古本屋( 古書店 )てことになるんだろうけど。

けど、本の電子化( 自炊も含めた )が進めば、古書の大前提となる紙の本自体が市中からなくなる。出版社が電子書籍を進める速度+個人が自炊する速度を足し合わせると、さっさと古書が減って古紙が増えることだろう。いずれにせよ、“電子書籍は敵”か。

だとすると、電子化されないような本の企画が必要になるんだろう。もうこうなると、書店だけの努力じゃなくて、出版界、印刷製本屋、それに読書人が束になってかからないと書店は絶滅決定種になるんだろうな( もうなってる?)。しかし、ネットの普及が物事のニッチ化を促進して、希少本の売り買いがネットオークションに移行していくのだとしたら、古書店も絶滅決定種じゃん。生き残るのは無店舗ネット古書店か?

物理的な“地元”という商圏に拘束される書店に、希少本というニッチ商品は利益をもたらさない。コストばかりかかる。

◇ ◇

でも、こんなこと考えてみても、希少本というニッチが残されている書店業界は、まだ幸いなのかもしれない。古新聞なんて誰も買ってくれないからね。

いまのようなスタイルの新聞は鮮度が命。本よりも状況は深刻なんだと思う。たぶん今後十年間くらいで、思い切りの良さと動きの素早さが勝負を決めるだろう。2011年春という現在はまだまだ見合っている状態だけど、変わるときは早いだろうな。

そのとき、過去のデータをどれくらい大量にネットで再利用できるように用意していたか、それを元手に新しい何かを生み出せる体制が整っているか、が分かれ目になるような気がする。


2009.11.24

『サイバービア 電脳郊外が“あなた”を変える』

( ジェイムス・ハーキン著 吉田晋治訳 NHK出版 2009 )
先の大戦( 応仁の乱じゃないよ )で生み出された「フィードバック」が、現在のインターネットでのわれわれの行動にまで脈々と受け継がれている、という内容。唯一の支配者がいるわけではなく、個々の意識の集合体がそれぞれに入力・処理・出力を輪っかのようにつないで、全体でぞわぞわと動いてゆく――まぁ、『攻殻機動隊』の stand alone complex につながってゆく話だ。

決して「インターネット万歳。われわれの未来は明るい」とか「やっぱりこれからの広告はネットだよね」といったテンションの高い話ではなくて、坦々と第二次世界大戦からヒッピー、そして現在へとつながる、人間としてはもしかしたら本能に近いのかもしれない「フィードバック・ループ」という切り口で、この先のネットの透明度を透かして確かめようとしているような内容( って、なんだかわからんね、コレじゃ )。

原書名が「The Dangerous Idea That's Changing How We Live and Who We Are」とあるように、楽観視というよりは「気をつけたがいいぜ」という感じで書かれている。何に気をつけるべきなのかというと、ネットが人の思考や感情を加速することで生み出される様々な“格差”に対してだ。

「フィードバック・ループ」に巻き込まれると、映画『マトリクス』に出てきた人間乾電池のようになっちゃうよ、といったところか( ますますわからんね、コレじゃ )。

気になる人は読むべし。読んで刹那的にマネタイズにいそしむもよし、ちょっと立ち止まって自分の立っている線路がどこに続いているのかを考えてみるのもよし。どちらもアリだ( 新聞社の人間なら必読じゃねぇの?)。

以下に、ピンときたところを抜粋。

p.26
サイバービアが拡大し発展しつづけるのは実に結構だが、一方で、人々同士、あるいは人々とサイバービアとのつながりはしだいに弱くなる。危険なのは、人々が電子的なゆるいつながりのネットワークに組み込まれ、何かヒントを得ようと闇雲にサイバービアに引きずり込まれて、囚人のように電子的な鎖でつながれてしまうことだ。

p.63
それ以上のことをしようと思えば読者に指図をすることになり、まるで高みから人々を操作するようになってしまう。仲間(ピア)との情報共有を通じて人々の意識を拡張するというカタログに記載された文言自体が一つの目的となり、混乱してあらゆる議論が錯綜する外の世界との関わりはもはや必要なくなったのだ。

p.83
当時の神秘主義やヒッピーの影響を受けた多くの理論と同じく、(スチュアート・)ブランドが究極的に求めていたのも、世界のあらゆるものが他のあらゆるものと結びつけられていることを示す方法だった。

p.91
電子的な結びつきによって多くの人々がつながるネットワークが生まれると、内容や目的よりも情報を伝えるメディアそのものを重視する彼らの考えかたがはるかにもっともらしく思えるようになり、人間のありかたにすら影響を及ぼすようになった。新しい電子メディアが人間にとってそれほど重要な手段ならば、身の回りのものを何でもこのネットワークに放り込みたくなるはずだ。

p.152
要するに、人は他人が好きな楽曲を好きになりやすい。

p.203
人々は電子メールや携帯メールやオンライン・ネットワークを通じて情報ループにとどまりつづけたいと願っていて、絶えずその情報ループを開放しながら、大量のフィードバックを素早く送り返すことでループを閉じようと無駄な努力をしているのだ。

p.204
マルチタスクとは単に作業を素早く効率的にこなすことを指すが、常に注意力を分散させるのは、つながりのネットワークで積極的な役割を果たし、何も見逃したくないというもっと卑近な願いからだと彼女は言う。

p.215
人々がゆったりと腰かけてグーグルに言葉を入力するとき、求めているのは客観的に正しい回答ではなく、グーグルを原動力とする地球規模の会話の中で最も頻繁に引用されている回答であることが多い。

p.243
サイバービアの住人が皆で品質を評価する場合、瞬く間に正のフィードバック・ループが生まれやすく、前の人が支持しているという理由だけでも成功の可能性はどんどん高くなる。記事の人気に関するデータがさらにフィードバックされ、報道する記事の選別に影響を及ぼすとしたら、編集室は結局自らの尾を追いかけるだけで、サイバービアの気まぐれで熱しやすい住人に紙面を委ねることになる。

p.207
(ヒズボラは)「IDFの意思決定サイクルに素早く対応するのではなく、たいていこれを無視してイスラエル軍の攻撃をじっと待ち、闇に潜ったり再び姿を現したりしながら、攻撃や待ち伏せのタイミングをうかがっていた」

p.283
ほとんどの人が本当に望んでいるのは麦をもみ殻から選り分けること――少数の本当に価値のある友人たちとは親密に付き合うが、その他とはハイテクを駆使して慎重に付き合う

p.291
電気システム中に無数のフィードバック・ループを設置すればきわめて正常に作動しつづけるが、安定させることばかり夢中になると、それ以上のことをしようとする時間がなくなる。人間らしさとは、無限フィードバック・ループを循環できることではなくて、目的を持って前に進んでいくことだ。

2008.05.17

<メモ>努力しているヒマはない!

( 宋文洲著 学習研究社 2005年12月 )

宋さんの書いたものに通底していると感じるのは、あれこれのしがらみから始めるのではなく、自分が何を感じ何を考え何を求めるのか、からスタートするということ。そのためには、自分や環境を最大限に利用するということ( もちろん社会規範は守って、ね )。当然といえば当然のことなんだけど、意外とみんな忘れていたりする。

『人材いらずの……』では、最大限に自分のリソースを活用するためにはレバレッジを利かせる、つまり仕組み化することが大事と、具体的な方法論として説いている。これは営業だけでなく、自分の暮らしをど~にかしたいという向きに参考になる。

私も常に自身の立ち位置とか意味とかを確認し続けているけど、ときどきはこういう本を眺めて、自分で自分の背中を押してやることもある。軽い本なので30~40分で読めます。

堀江何某とか村上何某が登場して、当時を思い出す。ん~、そうか。そうだったよな、て。


p.123
ネットワークを作る、広げる、なんて言うと、なんだかとても大変なことのように思えるかもしれません。でも、そんなことはありません。意外と簡単なことです。自分がだれなのか、自分は何をやりたいかを、まず自分の中できちんと整理し、それを具体的にわかりやすく外に向かって発信すればいいのです。




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