信頼とは何か

2009.10.20

報道のスピード競争は体力勝負の安売り競争だ

海の向こうではどんどん紙の新聞社がつぶれているとか聞こえてくるし、最近の調査によると記者の多くが紙からデジタルへの移行を望んでいるらしいとか。実は日本国内の一般紙の、特にネット部門も同じ感触を実感しているのだ。「編集が遅い!」って。

紙の編集部は新聞の発行時間に間に合えばいいや、という意識で100年以上やってきたので、理屈ではわかっていても、たぶん感覚の転換がうまくいかない。けれども、ネット部門はリアルタイムでニュースを卸しているから、取材・編集部門(ニュースセンター)が最新のニュースをどんどん出してくれないと他社のネットニュースに負ける、と焦ることが多くなる。そこで、社内アピールとして「○○事件のネットでの掲載時刻は、××新聞が何時何分、△△通信が何時何分……」のようなドキュメントを作って紙の編集部門や地方支局の記者に回覧するような工夫をする。

その甲斐あってか、最近ではニュースセンターの担当者がネットニュース向けに原稿を早めに出してくれるようになって一定の効果が見えてきた――のような話を聞いた。

まぁ、悪いことじゃないんだけど、ちょっと心配なのは、このままネットでの速報競争が激しくなってゆくのは、一種の安売り競争になっちまうんじゃないかと思われることだ。とにかく安売り競争では体力のあるところが勝つ。体力とは、資本力とか人的資源とか技術投資とかいろいろあるが、結局のところ他社との差別化戦略としては最上とはいえない気がするのだ。こと新聞社はこの点において分が悪かったりする。

社内見学してもらえばわかることなのだが、新聞社の中にはテレビがいくつもつけっぱなしになっていて、NHKをはじめとした複数のチャンネルをずっと流している。そして、テレビ画面に速報ニュースのテロップが流れたら、それを見ながら第一報の原稿を書く、なんてことをしている。もちろん自社での裏づけは取るけれども、速報とか第一報という点では自社だけでは絶対に勝てないことが多い。これはテレビ局やラジオ局だって同じだと思う。

マスコミどうしが連携して一種の速報システムを作り上げているようなものだが、どんなに彼らが頑張っても、速報のスピードを事件発生の瞬間にまで引き上げることはできない。しかし、インターネットはそれができてしまう。

不時着した飛行機の乗客が携帯端末でネットにリアルタイムで第一報を流すなんてのが典型例だ。マスコミどうしでスピード競争をしていたら、読者や視聴者が競争相手になっていたということ。安売り競争で商品の価格を下げることに血まなこになっていたら、低コストでお客さん自身が商品を作り出していた、といったところか。

「視聴者がどんなに現場からニュースを発信したとしても、信頼性がないじゃないか」というマスコミ側からの指摘があるだろうが、インターネットに接続している複数の視聴者が現場からの情報の信頼性を保証してしまうという現実がある。信頼性とは、つまるところ時間の集積だからだ。

ひとつの放送局や新聞社が数十年から100年以上かけて積み上げてきた時間が、その報道機関の信頼性を保証している。一貫性と言ってもいい。

一方、視聴者であるネットユーザひとり一人の個々の信頼性は、テレビや新聞社にくらべれば取るに足りないものだが、それがインターネットというプラットフォームによって束ねられたとき、個々の時間が一瞬にして積み上がって世界が無視できない信頼性を形成してしまう。そんな現象がいつでも必ず起きるとは断言できないにしても、少なくともそのような可能性は否定できない環境が実際に存在しているし、そのようなメカニズムが機能している実例がいくつもある。

マスコミの歴史という単一の時間軸による一貫性に対して、「その場面」という瞬間的だが同時多発的な一貫性が立ち上がる。どちらがどちらというわけではないが、とにかく現実としてそんなスピード競争が目の前にあって、それでもやっぱりニュースの速報競争なんてことをやり続けるのだとしたら、相当の消耗戦を覚悟しなければならないだろう。

そんな体力が果たして自社にあるのかどうか、まず経営者はその辺を見極めるのが重要だと思う。そして、そんな消耗戦を続けてゆけないと判断するなら、さっさと経営戦略を見直して戦線から離脱するべきだ。その点、専門性の高いメディアや地方新聞というのは、それぞれ独自のプラットフォームを自前で作り出して「戦線離脱」するのが容易に思われる。パイは小さいが収益性の高い青い海を見つけやすいだろう。ただ、規模の経済になれていると、こういう青い海がなかなか見えてこない。もしかしたら「見たくない」というのが本音かもしれないけど。

2008.03.02

ゼロスタートコミュニケーションズの「Social Graph~新しいネットの潮流~」に行ってきた

▽ セミナーのご案内:

http://zero-start.jp/seminar_20080229.html



SocialGraphというものについては、こちらを読めば概要を把握できる( というか、いまのところコレだけなんだろうけど )


▽ antipop:ソーシャルグラフについて:

http://d.hatena.ne.jp/antipop/20070819/1187527599



でもって、Brad Fitzpatrick氏のが狭義のソーシャルグラフだとすれば、山崎徳之氏の語るのは広義のソーシャルグラフで、山崎氏の説明によれば、



広義のソーシャルグラフ=狭義のソーシャルグラフ+コンテンツ・レコメンデーション



だそうだ。うん。この辺の概念的な構成なんかは理解できたと思う。もう少し詳しく知りたい方は、



▽ CNET:ソーシャルグラフの可能性を探る:

http://japan.cnet.com/marketing/socialgraph/



なんかがいいだろう。でもって、相関関係としてとらえられたヒト、モノ、コトが相互作用と互恵によって成長してゆくというビジョンも素敵だ。うん、そうあってもらいたいな、と思う。対象の同定、フォーマットやプロトコルの標準化、そしてそれらを交換すること、解析によって構造を生み出すことで Societyが発生するというのもうなずけるだろう。



ちょっと気になったのは、その結果としてネットはひとつの社会になる、というくだり。



ん~、構造化によってネット上に社会構造が出現した時点で、単一の社会というのはムリなんじゃないかな、と思った。「ひとつの社会」と云ってしまうからなんだかシックリこないんだろう、と思い、では、どのように言い換えたらいいのだろうか、と考えてみた。



異なる社会がゆるやかにつながれる、共通の対話基盤の出現



かな。



これまで離散的に、まさに関係に大きな齟齬を抱いたままの社会が、いくつもの島宇宙のように漂い、ときにいがみ合ったりしていたわけだけど、そこに(広義の)SocialGraphが対話基盤として出現することで、差異の小さい順番に島宇宙社会が再配置される可能性が出てくる。



とすれば、世の中もっと滑らかに住みやすくなるんじゃないのかな、と思う。もちろん、個々の多様性は保持されたままで。単一の社会が出現するというわけではなくて、人間という物理的な制約によってそれぞれ異なるコンテキストを持った意識があるわけだから、それ相当の差異とか社会とかは残ってゆくだろうと思う。同時にそれが「サービス」が生まれる原動力となるのだろう。



ただし、気をつけていないと、いつの間にか自分がマイクロコンテンツのスープの中を漂っていた――なんてことになりかねない。問題意識の格差社会はさらに進行する。



伊地知晋一氏のハナシに出てきた「データが人についてくる」というのはなかなかわかりやすい表現。これまでは私たちが意識的に飛ばしていたエージェントだが、これからはネット全体がエージェント化する、といったところか。ちとスライドに誤字が多かったのが気になったけど、ま、いいハナシ聴かしてもらいました。



もっとも危惧していることは、ココに政府とか政治が関与してくること。「官製ソーシャルグラフを作ろう」なんて声が聞こえてきたら要注意。たちまち無味乾燥になるか、腐ってしまうかのどちらかになる。この概念はもっと自由にみんなでこねくり回したいところだ。そうすればいつの間にかキャズムを超えて、インフラとして当然の存在になっていることだろう。


2007.10.25

流れの先にあるのは日腐れた澱み、かも――SAPIO:大新聞の「余命」に寄せて

SAPIO 11月14日号(小学館)の特集は、“大新聞の「余命」”。創刊以来、買ったことは1、2度なんだけど、書店の平積み表紙の特集タイトルが目に飛び込んできたので買ってしまった。



現場にきわめて近いところで仕事をしているわたし自身にとっては「う~ん、で?」というところ。わかっているんだけど、どうしようもない。でも、どうにかしなきゃいけない。じゃ、どうするよ――という焦燥感と、もうひとつは相反するようだけど、何ができるかな、というワクワク感が同居している状態。



“汚染”されていない若手や、広告をフィールドに仕事をしている人間にはわかっていることなんだが、問題はマネジメント層が、環境条件の変化とかを実感レベルで理解できていないところなんだろうなぁ、と思う。たとえば、SAPIOの今号を読んで「だから、みんな、やっぱり新聞のこと、マスコミのことをわかってないんだよな~」とか思ってしまう経営陣がいる新聞社は相当にヤバイ状態だと云えるだろう。



16ページに図が出ているけど、「マイクロコンテンツ化」の概念を理解できていないとすれば( そして、たぶん理解していないと思うけど )、彼らの仕事のプラットフォームが( 控えめな表現だけど、もしかしたら“劇的に” )変化しつつあることを実感レベルで理解できていないということになる。



たとえば、GoogleリーダのようなウェブベースのRSSリーダをタブブラウザで使えば、「小川浩的世界」の到来を実感できる。ニュースサイトやメルマガなんかよりも高速に、そして的確に情報収集ができてしまう。フィードという粒度でニュースソースに接触するようになると、従来の“マスコミ”の“得意”としていた“文脈”なんてものが解体されてしまって、ネットという場で再構成されてしまう――ということが、たぶん理解できないのだと思う。



この場合、“文脈”ということばを“信頼”ということばに置き換えてしまっても、あながち間違いではないのかもしれない。ネットという個の意識の増幅装置によって、“信頼”というものがコミュニケーションのプラットフォームの一要素でしかなくなっているわけ。この辺は、30ページの元毎日新聞社の河内孝氏が云っている「eプラットフォーム」とか「メディアコングロマリット」なんてのと関係してくるんだと思うけど、“ニュース”とは何か、その辺が根本から再定義される必要が出てきているのだと思う。



ニュースサイト全般が広告ビジネスとなってしまっている。こうなると、現場の実感を数字レベルで具体的直截的に感じ取っているのは広告営業の人間だと思う。たぶん彼らは、全体的な流れが大きく変わりつつあることは理解していると思う。メインストリームが大きく蛇行している。その流れに乗ればいい、ということも理解しているだろう。



でも、マネジメントが亜流になってしまったベクトルにしがみついている限り、企業としてのメディアの行く末は日腐れた澱み以外の何ものでもない、ということも感じとっているのだろう。引き伸ばされた袋小路を進むか、思い切って往来に出てみるか。



この夏以降、産経、毎日とMSNの関係の変化、それに連動するような朝日、日経、読売( ANY )の動きなんかを眺めていると、各社、そして新聞業界全体がどの流れを選ぶのか、問いを突きつけられていることがはっきりと見えてくるようだ。



この辺でやめておこう。あんまり調子にのって書いてしまうと各方面に迷惑をかけてしまう。……と考えてしまう時点で、既にわたし自身も“汚染”されているのかもしれない。でも、ほんとうにヤバイっすよ。

2007.07.31

「神の似姿としての人」という「物語」

仮定しよう。ヒトは想像するために存在する。homo imago Dei「神の似姿としての人」とは、「神が神自身に似せて人間をつくった」とヒト自身が想像している、つまり翻って、ヒトがヒト自身を素材として神を想像しているわけだ。そこにヒトの存在としての基点があるのではないか、と考えた。

「神は自身に似せて人を作った」とヒトが考えていると同時に、その瞬間、そのヒト自身が「神は人に似ている」と仮定している。この構造は、小説、ドラマ、映画、マンガなどの物語という一種の仮想された構造(=想像物)に通じている。だから、ヒトは役柄に感情移入し、俳優に熱狂し、ときとして現実と物語の区別が曖昧に感じられたりする。

仮想された構造をひとくくりに「物語」と呼ぶとしよう。ヒトは想像するために存在する=ヒトは物語を作ることを重要な機能としている。

仮想された構造というと、ネットという巨大な「物語」がここ最近に出現したと云えるわけだが、それ以前に社会とか国家という「物語」が存在していたし、ミクロには町内、友人、家族という「物語」が存在してきたとも云えるだろう。

「家族は仮想ではなく、実在だ」と主張できるが、「家族」という単位を考え出し、コミュニケーションにおいて「家族」という単位をコトバで伝え合っているという点で、「家族」はヒトが考え出した概念として「仮想」となる。

そうだ。ここで重要なことがわかってくる。「物語」とはコミュニケーションにおいて機能する。「もの」を「語る」まさにその場面において、ヒトは「仮想された」何ものかを作り出し伝え合う。それこそが「物語」が「物語」たるゆえんだろう。

「物語」をヒトの機能だとして、それを構成しているのは何だろうか。

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