NHKの「日本の、これから」なんてのをやっていて、テーマが「学力」だというので珍しく見る気になった。子どもが生まれて、こういうことへの関心が個人的に高まっているということが原因だと思う。もともとこの類の番組は何も生み出さない不毛なものだから最初から関心外なのではあるけど、今回は特別ということで。
が、放送開始から30分経たないで、「知識と応用力、どちらが大切か」という質問が出たあたりで莫迦々々しくなってきた。
そもそも、学校教育といっても小学校からの義務教育9年間に、高校3年間に、大甘に甘く考えて大学・大学院などの高等教育まである。義務教育期間にしたって小学生と中学生では条件が異なってくるだろう。知識も応用力もどちらも大切だし、その大切さ具合というのは子どもの年齢や環境などでバランスが変わってくるだろうし、だいたい、「知識」とか「応用力」というものをきちんと定義することなく問いを立てるというのは、受信料の無駄づかい以外の何だというのだろうか。
腹が立ったのでテレビを消してしまった。
勉強とか学習とか教育とか、それらはなぜ必要なのかという問いがまず必要なんだと思う。「教育の目的は不測の事態への適応力をつけるための訓練」とか誰かが寝ぼけたことを云っていたが、そういう考えだから勉強の意味とか意義がわからなくなる。「不測の事態」に遭わなきゃいいわけだし、遭ったとしても誰かに頼れば済むわけで、自分から積極的に「不測の事態」を解決してやろう! なんて、みんなが思っているわけではないから、「教育の目的」とやらがあやふやになってくる。
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勉強とか学習とか教育とかの目的は、たとえば自分の子どもの「何で勉強しなきゃいけないの?」的疑問に答えるとすれば、
・仲良しな友達を作ること
である。もう少し難しく、たとえば、○○審議会の報告書的に云えば、
・個人の社会的コミュニケーションを円滑におこなうこと
となるだろう。わたくし的に云えば、
・個人や社会の物語を重ねること
となる。「物語」というとこれまでの意味合いに邪魔されてしまうから敢えてローマ字で「MONOGATARI」と表記したい。たぶん今後、コレをテーマに書くことになるだろうし、ちょうどよい機会だ。
「個人や社会のMONOGATARIを重ねること」が勉強とか学習とか教育とかの目的なのである。
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「MONOGATARI」は、ある存在がもっているもので、記憶と論理によって構成されている――と取り敢えず定義したい。スキーマ(schema)とかコンテキスト(context)というコトバが最も近いのだろう。が、これまで様々な場面で用いられてきた「コンテキスト」というコトバを敢えて使わないことにする。「ものがたり」でも「物語」でも「モノガタリ」でも「monogatari」でもない。
感情というのは記憶と論理が自動反応するパッケージであると云えばMONOGATARIに内包される。家庭・職場などの社会では「場」とか「空気」が、その社会のMONOGATARIになるだろうし、商品や場所にまつわるMONOGATARIは、クオリアというコトバで言い換えられるかもしれない。
ある存在を基点として記憶と論理というベクトルで表されるもの、それがMONOGATARIであり、その前提としては人間による認識がある。MONOGATARIはすべてユニークで、同一の存在はありえない。なぜなら、まったく同じ記憶が存在しないからだ。
それから、MONOGATARIには世界がまるごと納められているというところが、コンテキストとは明らかに違う点である。MONOGATARIには、それを生み出した存在(≒人間)にとっての認識された世界がまるごと入っていて、それをパッケージとして扱うとき伝達が可能になる。このパッケージは、外界の文脈に依存せずに流通できる( ほかのMONOGATARIと重ねるかどうか、は別問題 )。
人や社会、人が生み出したもの、人が解釈したものにはそれぞれ固有のMONOGATARIがあり、それらの存在は自身のMONOGATARIを、対象とした存在のMONOGATARIに重ねたい――という“欲望”を持っている。たぶんこれは、脳の神経細胞がつながりたがるという生物学的なフラクタルな現象なんだろう。けっしてアナロジーではない、と思う。
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21時頃に気になって再びテレビをつけてみたら「公立学校では成績上位者と下位者のどちらを優先すべきか」みたいな不毛な質問を立てていたので、うんざりして即座にスイッチを切ってしまった。くそっ、もう騙されないぞ。
どちらも優先すべきだし、そもそも「どちらかを優先しなければならない」と考えること自体が、安っぽいコンサルのようで嫌いだ。子どもの教育というのは、そのような経済原理を第一にして考えるべきではない。
では、なぜ、そのような質問を安易に立ててしまうのだろうか――と考えてみた。
公教育というのは、国や自治体といった行政レベルでの経済性を優先して教育をおこなうということ。そもそも教育は個々人のレベルに合わせておこなわれるのが本来的なのであって、「学校」という状況は一種の“異常”なのだと思う。が、親自身が経済原理にのっとって生きてゆくのであれば、同じ経済性という土俵の上にあるのだから異常でもなんでもない。それが常態であり当たり前だと思ってしまう。だから、親は、自分の価値尺度をもって学校に様々な要求をしてしまう。
だから、成績上位者と下位者という経済的な区分を持ち込むし、どちらを“優先”すべきかという経営的な判断をしようとするわけだ。
私にとって教育の目的が「MONOGATARIを重ねること」である限り、それはもともとが個々人の意識に発する問題であると思う。人間どうし、そして人間と社会、社会と社会という入れ子構造になっている存在どうしの「MONOGATARIを重ねること」から議論を出発させるべきであって、わたくし的には、教育に関する議論を“公教育”とか“学力”という経済的な尺度ではじめるのは間違っていると思うのだ。それらはあくまでもわれわれが抱え込んでいる問題を解決するための現象とかツールの一部に過ぎない。
「MONOGATARIを重ねること」というのは、我々ひとりひとりがきちんと考えることからスタートする。手垢にまみれたコトバを使って表層的な議論を続ける限り、「学力」が高まることはないと思う。