MONOGATARI論

2011.04.18

刈り込みの時がやってきた。

電気利用が爛熟して、ふやけ切ったスタイルをシェイプアップする時が来たのかもしれない。豊富な電力を背景として生み出された技術群が、電力を不要にするべく応用される時代が到来しようとしているのかもしれない。“電力文化”が一種のカタストロフを迎え、世界が次の段階に進化しようとしているのだろうか。

すべての存在は自らの存在理由を無意味化するべく機能する――という無手勝流の命題は、時代とか世界にも適応できるのかな、とか考えている。

これは一種のモノノアハレとかワビとかサビなんてところにつながって、つまり、自分を無にすることで世界が有意になるという眺め方なんだろうけど、意外とこういうのは日本人向きなんじゃないかな、とも思うわけです。人が決定的に無力であらざるを得ない自然の力を見せつけられるとき、人々の“経済性”が強く働いてプラットフォームの強化が進む、人々の寄り添いだとか結びつきが強くなる――というのは、黒船とか大戦とかという決定的に強く抗うのが難しい存在が登場したときに似ている気がするわけです。

とすると、“予定されてしまっている電力不足”という決定的状況も、同じように作用するんじゃないかなぁ、と演繹したくなるわけです。日常生活、経済活動などが縮退せざるを得ない状況だけど、同時に、縮退という制約がイノベーションの種ともなり得る。

常に自己確認のために“操作できる他者”を必要としてきた人たち、自らの多様性を増やすために他者との“物語”のスクラップ&ビルドを繰り返し、それを通じて自他間で価値の交換を行なうという歴史を積み重ねてきた、そんな人たちには理解しがたいかもしれませんが。

多様性が、非・人間である自然環境から無作為に与えられることが多かった( のかな?)日本にとって、そこに“物語”を見出し意味づけする、棲んでいる世界を有意にするというのは、実はごく当たり前の風景なのかもしれない。それを忘れていたのかも。

“人間という他者”しか相手にしたことがないと、その多様性は混沌にしか見えないのかも。

ふやけてしまった無駄なところを刈り込んで本質に肉薄する、という行為に、これからの電力不足は役立つのかな。同時に、要らないものを思い切って削り落としてしまう、ということで次の段階に進化できるのだとしたら、これまでの“ふやけ”は無用の用として大いに意味が与えられるのかもしれない、と思うわけです。

(以下は、読んでみたい本、ということで)

2011.04.07

儲けるには差異を作り出せばいい、て理屈はわかる。けど…

なんだか小難しそうなことを考えている。

一言で云ってしまうと、“あり続けること”を目的として多様性を求める景色。

多様性は価値の交換で獲得できるが、価値とは差異のことであり、それは自分(達)と交換する相手(等)との間にある。その差異を作り出すために「経済性」というものがツールとして使われ、結果として自分(達)の基盤となるプラットフォームが形成される。差異(=価値 )は、このプラットフォームを基準として測られることになる。<例: ブランドを構想する>

プラットフォームは、それ自身が交換相手ともなり得る。プラットフォームと自分の間で価値の交換が行われることで、自分はプラットフォームの改変や変容の促進が可能になる。プラットフォームは別のプラットフォームに内包され得る。<例: ブランドを作るために社内コンセンサスを形成する>

価値の交換は、自分(達)と相手(等)との間に仮構される「物語」を通しておこなわれる。「物語」は価値交換のための暫定的なプラットフォーム(=文脈、チャンネル )となるが永続はしない。交換が終了すると同時に消失する。相手も独自のプラットフォームに載っているわけで、交換が終了すると双方のプラットフォーム間の差異が減ることになる。<例: 宣伝広告や店舗デザインなどマーケティングチャンネルを通して、商品をお買い上げいただく>

全ての存在はこのような構造で語りつくされ、全ての存在は存在し続けることを目的とする。目的に対する擬議は無意味である。

◇ ◇

この仕組みを使うと、友達との付き合いだろうと、国家間の戦争だろうと、お金儲けだろうと、自然災害だろうと、何でもかんでもひとつの枠組みで眺めることができるんじゃね? と思った。スコープ(=視点・視線・視野 )を適宜かえてやることで、この構造をどんなレベルでも見出せるかもしれない。遠目に見るとなんだかワケわかんないけど、近づいてやるとニッチな微小構造が見えてくる、とか。

そんな具合いに考えていると、戦争がコミュニケーションの一形態だと思えてくる。ただ、そのもたらす結果が殺伐としているわけだが、基本構造は同じ。だから「経営戦略」とか「販売戦略」ていう具合に軍事用語を使っちゃうのかな。

じゃあ、この仕組みで、次に何をどうするか、どうやって金儲けするか、なんて下世話なことがクローズアップされてくるわけだけど……、どうしたもんかな。構造を語ることと、それを実践に応用することの間にはものすごく深い溝があるみたいだ。


2011.04.04

水戸岡鋭治氏「自分の好みを超えて、正しく美しく楽しいことを作れる人」

どうして水戸岡さんのプロダクツを見ると、嬉しくて涙が出そうになるんだろう。自分の息子が、きっと喜んで駆け寄るだろうな、という列車。

久しぶりに新聞のテレビ欄を見たら“九州の列車”とあって、すぐに、あ、水戸岡さんだ、と分かった。たまたま見に行ったINAXギャラリーで好きになってしまって、デザイン本なんぞ何冊か買って、そしたら息子も鉄道好きになってしまったんだけど、その“動いている水戸岡さん”が見られるなぁ、ということで、本当に久しぶりにNHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』を観てしまった。

そこで気に入ったあたりをメモ。

・「あったらいいな」を形にする。
・センスでも才能でもない。手間を惜しまない。
・本当にこれで喜んでくれるのか?
・公共のためのデザイン。デザイナーは公僕である。
・誰もやらないギリギリの仕事が来る、それが個人。
・公共空間とは対話のための空間。
・公共空間が贅沢でないと子どもは育たない。
・「そういうのは私も見たことがない」(椅子メーカーの担当者の言葉)
・進んでいるものを止められるのは僕しかいない。
・いつかは、きっと。いいものを。
・もうちょっと頑張って、完成させたい。

茂木さんが、九州の人はこんな贅沢な列車に乗っているの? みたいなことを云っているのを見て、そうだよ、水戸岡さんを選んだJR九州の人は偉いし、そんなところが九州なんだよ、と一人で勝手に自慢していた( 莫迦みたいだけど )。私の一族はそんな九州人なんだ( ほんと莫迦みたい )。

人とは記憶と論理から成り立っているのだとしたら( 実際、私はそうだと思っている )、その記憶を豊かにしなければ、豊かな人とはなり得ない——というのは正しいと思う。

人の記憶は、人や物や環境というオブジェクトが作り出す“物語”と、そこで交換される価値から生み出される。だから、その“物語”を豊かにすることで、人と人とが交換する価値も豊かになるのだと思う。

そんな仕事をしたいなぁ。

(あ〜、息子つれて九州行きたい)


プロフェッショナル 仕事の流儀
第160回 水戸岡鋭治氏
http://www.nhk.or.jp/professional/2011/0404/index.html


ちょっと古いけど(2008年) kanaean さんによる
「鳥の詩JR九州プロモーション完全版」
水戸岡印の列車が多数登場。内装シーンがもっと欲しいけど、それは実地で乗車して確認してね。


2009.11.04

ハロウィーンは遺伝子に刻まれた「略奪」の名残り

先日のハロウィーンで、わが町内でも子どもたちが仮装して歩き回ったらしい(全国各地でそんな行事があったみたいだね)。自分が小学生だった30年前には、そんな行事なんてなかったし、そもそも「ハロイーンって、何?」という時代だった。商店街にハロウィーンの飾りつけなんてなかったと思う。

初めてハロウィーンというものがあるのを知ったのは、やはり小学生の時なんだけど、NHKテレビで放送していた「チャーリー・ブラウンとスヌーピー」(=「ピーナッツ」)だったと思う。カボチャ大王の話ね。でも、実際のところ「へぇ」でおしまいなわけで、町内でそんなことをしよう、なんてのは夢にも思わなかった。だって関係ないじゃん。うち仏教だし。

ということで、そんな西洋文化に毒されて……なんて苦言みたいな文句を40過ぎのオッサンとしては幾らでも吐けるわけだが、キリスト教でもなければケルト民族でもないのに、なぜハロウィーンなのか、その辺のところをマーケティング抜きで考えてみた。

◇ ◇

ハロウィーンと似たような習俗で「お月見どろぼう」というのが日本にはあるらしい。もしかしたら「なまはげ」なんてものも同じ線上で語られるのかもしれない。こういうのは、社会が多様性を維持するための仕組みとして存在しているのではないか、と思った次第。

外来者の来訪は混沌をもたらすとともに、多様性という可能性をももたらす。単一の遺伝子では災厄ひとつで絶滅してしまう危険性があるが、多様性があれば生き残る可能性があるというわけだ。生物的な遺伝子の多様性なら、「花嫁どろぼう」という直接的なスタイルを思い出す。いわゆる「略奪婚」ってやつ。隣村から花嫁をかっさらってくるというやつ。外界から新しい遺伝子を調達するということ。

異界の物の怪、月からの使者、酔っ払って包丁振り回して説教垂れる異形の神(鬼)なんてのは、いずれも外界からの来訪者を象徴していて、日常生活に非日常の刺激をもたらす。お菓子をもらったり、団子を盗んだり、よそんちに上がり込んで飲み食いするのは、いずれも多様性をもたらした対価としての“略奪”なのかな。“略奪”が、コミュニケーションの基本スタイルというか原初的な姿を構成している重要な部分なのかもしれない、と思われてくる。

同時に一方で、社会(ムラ)は多様性よりもシステム維持を目的とする。いわゆる秩序というやつ。たぶん“所有”とか“財産”が理由なんだと思うけど。それでも、ムラ自体の存続にはある程度の多様性が必要で、それがないと“時代”とか“世界”という外部環境の変化から置き去りにされてしまう。ただし、ムラ内部の多様性はできるだけ押さえておきたいと(権力者は)考える。そこで、人がそれぞれ頭の中に思い描く多様性というもののスケールが異なってくる。年寄りが若者に向かって「そんなこと、すな!」というやつ。

多様性に対する認識(=解釈)の違いが、世代間、男女間、上司と部下、政党間、国家間、民族間の争いの原因になっているんだろう。(もちろん対立図式はこれだけじゃなくて、他にいくらでもある)

と考えてくると、粒のそろった多様性を用意して人々を惹きつけ取り込むことで、何かできるんじゃないかと思われてくるのだ。古代ローマの闘技場とか公衆浴場なんてのがそうだろうし、MMORPGなんて典型かもしれない。サーバという範囲が限定され制御された世界での、他のプレーヤーとの出会いや冒険という多様性を楽しむ。

果たしてオンラインゲームが“激動の”今をサバイバルするのにどれくらい役立つのか、という点は置いといて、人の遺伝子に刻まれた生存戦略としての多様性を満足させるために、人はこんな具合にいろんな場を“略奪”(=やりとり)のプラットフォームとして作り出してきたんだろうなぁ、と思うのだ。ここんところ、マーケティングに使えそうだ。

2009.10.06

信頼する、信頼しない、信頼できない

(またぞろ)実名じゃないと信頼できないとか、ソーシャルメディアは信頼できないとかという話が流れてきたので、「信頼ってなんだろう」とふらふら考えてみた。

「信頼」というのは「信じて頼ること」とか「信じること」とか「まことと思う」とか「間違いないと思う」なんて辞書の意味なんだけど、本質的なことの周りをぐるぐる回ってばかりで、バシッと言い当てていないような気がしてもどかしい。だから自分なりに定義してみた( あくまでも仮説として、と最初に逃げを打っておく )。

「信頼」とは、自分の記憶と論理に適合するという判断なんだ。

だから、記憶が違っているとか、考え方の道筋が違っていれば、当然ながら「信頼」というものも変わってくる。だから、人によって「信頼」の対象が違ってくる。

たとえば、「政府 補正予算見直しで2・5兆円超確保」なんてロイター電が「信頼」の対象となるのは、政府の財政に関心があって、そういうニュースが少なからずもその人自身の考え方や行動に影響を与えると判断しているからだ。“デカ目”が気になってマスカラをどうやって塗ろうか、なんてことだけで頭が一杯になっている女子高生にとっては「どーでもいいこと」に過ぎない。

いっぽう、次の補正予算にどうやって食いついて多少なりとも分け前をいただこうか、なんて考えている新規事業担当のオッサンにとって、EXILEって何? 新しい育毛剤? みたいな状況だって十分ありうる。

オッサンにとっては補正予算について報じるニュースが「信頼」だし、休日の女子高生にとってはアイラッシュトニックが「信頼」だったりするわけだ。善いとか悪いとかじゃなくて、そういう具合に違うだけのこと。( この辺は適当に書いているので、あまり気にしないで各自ご存知の範囲内で適当に言い換えておくんなさい )

と考えてくると、「信頼」というのは「信頼する」とか「信頼しない」といった主体的な判断じゃなくて、現在の自分の文脈が自動的に導き出しているに過ぎないのじゃないか、と思われてくる。つまり「信頼できる」かどうか、にすぎない。そこには個人の意思なんてものは介在していなくて、その個人のそれまでの記憶の集積と、作り上げられてきた考え方の筋道に、その対象が適合するかどうかということだ。

たぶん、個人の意思なんてものを前提に考え始めると、たちまち「信頼」に対する“確信”が揺らいでしまって判断ができなくなる( 一種のゲシュタルト崩壊ってやつ?)。ふつう「信頼」なんてエイヤっと決めてしまっていることだからだ。いちいち「きょうのNHKニュースは信頼に足るかどうか」なんて考えないでしょ?

古臭い表現でぶっちゃけて云ってしまえば、“フィーリング”とか“テイスト”に合うかどうか。合うときは「信頼できる」のであって、合わないなら「信頼できない」じゃなくて「関係ない」なのだ。

「信頼できる」の反対は、その人の判断の埒外にあるので「どうでもいい」「関係ない」「知ったこっちゃない」という、判断軸から外れた状態なんだけど、それをうまく表現できないとか、そんな宙ぶらりんの状態は許せん! ということで「信頼できない」と云ってしまう。

そうすると、まるで自分が「信頼」の状態を主体的に選んでいるような錯覚に陥るので、ついつい「信頼する」とか「信頼しない」と偉そうなことを云っちゃうわけだ。

でも、真実だから信頼できるんじゃん」という意見があるだろう( 特にこの表現はマスコミの人が使いたがる )けど、真実なんてひとつじゃない。もし本当にひとつしかないのだとしたら、世の中に議論とか紛争なんて発生しないよ。誰もが「自分こそ真実だ」と思い込んで何種類もの「真実」が生まれてしまっているのが人間の状況だ。

まあ世間的に大体そんな感じだから、それが確からしいということにしようね――という任意的というか恣意的な取り決めが「真実だ!」とか「信頼しよう!」なのであって、それらが絶対ということはない。「真実」とか「信頼」というのは可能性に過ぎない。

ちょっと前までは「概ねこんなんじゃないの?」というのが、自分の周りを見回してみてもそんなになくて、まぁ一つか二つくらいだったのだが、ネットが登場して「こんなのもアリじゃね?」というのがたくさん見えるようになってしまった。だからニッチだとかロングテールなんてのが“発見”されて、マーケティングなんてのがもてはやされるようになる。

云ってみれば、ネットとか検索エンジンというのは「信頼」の可能性を爆発的に広げてしまった罪な存在なのかもね。

どんなにヘンな考え方であっても、ネットを流してみると、なんだか気になる、まぁ当てにしてもいいかな、信頼できるかな、みたいな情報が見つかるようになる。個人的には「外山恒一の法則」って云っているんだけど( どんなにヘンであっても、ある程度の得票数を集めうる )。

だから、「ネットで実名じゃないと信頼できない」とか「ボランティアが作った事典なんて信頼できない」っていうのを読んだり聞いたりすると、「そういう考え方もあるよね」とは思うけれども、それに賛同しようとか支持しようとか「絶対そうだよね!」だとかは思わない。そういうときの「信頼」ってそもそも何よ、と考え込んでしまうのだ。

「信頼」は可能性に過ぎない、という宙ぶらりんな状況が許せないのかな。確かに「信頼とはこれこれこうである!」ってバシっと決め付けちゃったほうが、社会的な物差しが(とりあえずは)一意に決まってマネタイズしやすいし、ね。パイが大きくなってマーケティングがやりやすくなるから。


2008.03.08

勉強は仲良しなお友達を作るために必要なんだよ

NHKの「日本の、これから」なんてのをやっていて、テーマが「学力」だというので珍しく見る気になった。子どもが生まれて、こういうことへの関心が個人的に高まっているということが原因だと思う。もともとこの類の番組は何も生み出さない不毛なものだから最初から関心外なのではあるけど、今回は特別ということで。



が、放送開始から30分経たないで、「知識と応用力、どちらが大切か」という質問が出たあたりで莫迦々々しくなってきた。



そもそも、学校教育といっても小学校からの義務教育9年間に、高校3年間に、大甘に甘く考えて大学・大学院などの高等教育まである。義務教育期間にしたって小学生と中学生では条件が異なってくるだろう。知識も応用力もどちらも大切だし、その大切さ具合というのは子どもの年齢や環境などでバランスが変わってくるだろうし、だいたい、「知識」とか「応用力」というものをきちんと定義することなく問いを立てるというのは、受信料の無駄づかい以外の何だというのだろうか。



腹が立ったのでテレビを消してしまった。



勉強とか学習とか教育とか、それらはなぜ必要なのかという問いがまず必要なんだと思う。「教育の目的は不測の事態への適応力をつけるための訓練」とか誰かが寝ぼけたことを云っていたが、そういう考えだから勉強の意味とか意義がわからなくなる。「不測の事態」に遭わなきゃいいわけだし、遭ったとしても誰かに頼れば済むわけで、自分から積極的に「不測の事態」を解決してやろう! なんて、みんなが思っているわけではないから、「教育の目的」とやらがあやふやになってくる。





勉強とか学習とか教育とかの目的は、たとえば自分の子どもの「何で勉強しなきゃいけないの?」的疑問に答えるとすれば、



・仲良しな友達を作ること



である。もう少し難しく、たとえば、○○審議会の報告書的に云えば、



・個人の社会的コミュニケーションを円滑におこなうこと



となるだろう。わたくし的に云えば、



・個人や社会の物語を重ねること



となる。「物語」というとこれまでの意味合いに邪魔されてしまうから敢えてローマ字で「MONOGATARI」と表記したい。たぶん今後、コレをテーマに書くことになるだろうし、ちょうどよい機会だ。



「個人や社会のMONOGATARIを重ねること」が勉強とか学習とか教育とかの目的なのである。





「MONOGATARI」は、ある存在がもっているもので、記憶と論理によって構成されている――と取り敢えず定義したい。スキーマ(schema)とかコンテキスト(context)というコトバが最も近いのだろう。が、これまで様々な場面で用いられてきた「コンテキスト」というコトバを敢えて使わないことにする。「ものがたり」でも「物語」でも「モノガタリ」でも「monogatari」でもない。



感情というのは記憶と論理が自動反応するパッケージであると云えばMONOGATARIに内包される。家庭・職場などの社会では「場」とか「空気」が、その社会のMONOGATARIになるだろうし、商品や場所にまつわるMONOGATARIは、クオリアというコトバで言い換えられるかもしれない。



ある存在を基点として記憶と論理というベクトルで表されるもの、それがMONOGATARIであり、その前提としては人間による認識がある。MONOGATARIはすべてユニークで、同一の存在はありえない。なぜなら、まったく同じ記憶が存在しないからだ。



それから、MONOGATARIには世界がまるごと納められているというところが、コンテキストとは明らかに違う点である。MONOGATARIには、それを生み出した存在(≒人間)にとっての認識された世界がまるごと入っていて、それをパッケージとして扱うとき伝達が可能になる。このパッケージは、外界の文脈に依存せずに流通できる( ほかのMONOGATARIと重ねるかどうか、は別問題 )。



人や社会、人が生み出したもの、人が解釈したものにはそれぞれ固有のMONOGATARIがあり、それらの存在は自身のMONOGATARIを、対象とした存在のMONOGATARIに重ねたい――という“欲望”を持っている。たぶんこれは、脳の神経細胞がつながりたがるという生物学的なフラクタルな現象なんだろう。けっしてアナロジーではない、と思う。





21時頃に気になって再びテレビをつけてみたら「公立学校では成績上位者と下位者のどちらを優先すべきか」みたいな不毛な質問を立てていたので、うんざりして即座にスイッチを切ってしまった。くそっ、もう騙されないぞ。



どちらも優先すべきだし、そもそも「どちらかを優先しなければならない」と考えること自体が、安っぽいコンサルのようで嫌いだ。子どもの教育というのは、そのような経済原理を第一にして考えるべきではない。



では、なぜ、そのような質問を安易に立ててしまうのだろうか――と考えてみた。



公教育というのは、国や自治体といった行政レベルでの経済性を優先して教育をおこなうということ。そもそも教育は個々人のレベルに合わせておこなわれるのが本来的なのであって、「学校」という状況は一種の“異常”なのだと思う。が、親自身が経済原理にのっとって生きてゆくのであれば、同じ経済性という土俵の上にあるのだから異常でもなんでもない。それが常態であり当たり前だと思ってしまう。だから、親は、自分の価値尺度をもって学校に様々な要求をしてしまう。



だから、成績上位者と下位者という経済的な区分を持ち込むし、どちらを“優先”すべきかという経営的な判断をしようとするわけだ。



私にとって教育の目的が「MONOGATARIを重ねること」である限り、それはもともとが個々人の意識に発する問題であると思う。人間どうし、そして人間と社会、社会と社会という入れ子構造になっている存在どうしの「MONOGATARIを重ねること」から議論を出発させるべきであって、わたくし的には、教育に関する議論を“公教育”とか“学力”という経済的な尺度ではじめるのは間違っていると思うのだ。それらはあくまでもわれわれが抱え込んでいる問題を解決するための現象とかツールの一部に過ぎない。



「MONOGATARIを重ねること」というのは、我々ひとりひとりがきちんと考えることからスタートする。手垢にまみれたコトバを使って表層的な議論を続ける限り、「学力」が高まることはないと思う。

2007.07.31

「神の似姿としての人」という「物語」

仮定しよう。ヒトは想像するために存在する。homo imago Dei「神の似姿としての人」とは、「神が神自身に似せて人間をつくった」とヒト自身が想像している、つまり翻って、ヒトがヒト自身を素材として神を想像しているわけだ。そこにヒトの存在としての基点があるのではないか、と考えた。

「神は自身に似せて人を作った」とヒトが考えていると同時に、その瞬間、そのヒト自身が「神は人に似ている」と仮定している。この構造は、小説、ドラマ、映画、マンガなどの物語という一種の仮想された構造(=想像物)に通じている。だから、ヒトは役柄に感情移入し、俳優に熱狂し、ときとして現実と物語の区別が曖昧に感じられたりする。

仮想された構造をひとくくりに「物語」と呼ぶとしよう。ヒトは想像するために存在する=ヒトは物語を作ることを重要な機能としている。

仮想された構造というと、ネットという巨大な「物語」がここ最近に出現したと云えるわけだが、それ以前に社会とか国家という「物語」が存在していたし、ミクロには町内、友人、家族という「物語」が存在してきたとも云えるだろう。

「家族は仮想ではなく、実在だ」と主張できるが、「家族」という単位を考え出し、コミュニケーションにおいて「家族」という単位をコトバで伝え合っているという点で、「家族」はヒトが考え出した概念として「仮想」となる。

そうだ。ここで重要なことがわかってくる。「物語」とはコミュニケーションにおいて機能する。「もの」を「語る」まさにその場面において、ヒトは「仮想された」何ものかを作り出し伝え合う。それこそが「物語」が「物語」たるゆえんだろう。

「物語」をヒトの機能だとして、それを構成しているのは何だろうか。

ウェブページ

フォト

hide module-header

redirect to tafworks.com

GglAnlytcs